ルカ11:29-54 時代への警告
光が来ているのに見ようとしない人々
イエスが神の国の権威を示されても、多くの人々はなお信じようとしませんでした。
彼らはさらにしるしを求め、
「もっと決定的な証拠を見せてほしい」
と考えていました。
しかし問題は証拠の不足ではありませんでした。
目の前に神の働きが現れているにもかかわらず、それを受け入れようとしない心にあったのです。
この段落でイエスは、当時の人々の霊的な状態を厳しく指摘し、とくに宗教指導者たちの偽善に警告を発せられます。
ヨナのしるし
群衆が集まる中で、イエスは言われます。
「この時代は悪い時代です。しるしを求めています。しかしヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」
ニネベの人々は、ヨナの宣教を聞いて悔い改めました。
またシェバの女王は、ソロモンの知恵を聞くために遠くからやって来ました。
しかし今、人々の目の前にはヨナよりも偉大な方、ソロモンよりも偉大な方がおられます。
それにもかかわらず、彼らは信じようとしませんでした。
つまり問題はしるしの数ではなく、既に与えられている光に応答するかどうかだったのです。
体のあかり
続いてイエスは灯のたとえを語られます。
「あなたの目は体のあかりです。」
目が健全なら体全体が明るくなります。
反対に目が悪ければ体全体が暗くなります。
ここでイエスが語っているのは視力の話ではありません。
神の真理を受け入れる心の状態についてです。
同じ光を見ても、
ある人は受け入れ、
ある人は拒みます。
光の問題ではなく、見る側の問題なのです。
だからイエスは、
「あなたの中の光が暗闇にならないように注意しなさい。」
と警告されます。
外側はきよくても
その後、あるパリサイ人がイエスを食事に招きました。
しかしイエスが食事の前に儀式的な手洗いをしなかったため、彼は驚きます。
そこでイエスは鋭く語られます。
「あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。」
パリサイ人たちは宗教的規則を熱心に守っていました。
しかし神が見ておられるのは外側だけではありません。
行動が正しく見えても、心が神から離れているなら本当の義ではないのです。
イエスは、外面の敬虔と内面の状態が一致していないことを問題にされました。
三つのわざわい
イエスは続いてパリサイ人たちに三つの「わざわい」を宣告されます。
第一に、彼らは細かな十分の一を熱心にささげながら、
正義と神への愛
をなおざりにしていました。
第二に、人々から尊敬されることを愛していました。
第三に、自分たちが人々へ悪い影響を与えていることに気づいていませんでした。
つまり彼らは宗教を愛していましたが、神を愛していなかったのです。
律法学者への警告
すると律法学者の一人が、
「先生、そのようなことを言うと、私たちまで侮辱することになります。」
と言います。
そこでイエスは律法学者たちにも警告を向けられます。
彼らは人々に重荷を負わせながら、自分では指一本触れようとしませんでした。
また、過去の預言者たちを称えながら、実際には神の真理を拒み続けていました。
さらに彼らは、
「知識の鍵を取り去った」
とも言われます。
本来、人々を神へ導くはずの人たちが、かえって神への道を妨げていたのです。
最大の問題は心のかたくなさ
この段落の中心は、宗教指導者たちへの非難ではありません。
イエスが明らかにしているのは、
人は宗教的であっても神から遠く離れることがある
という事実です。
彼らには聖書の知識がありました。
社会的な尊敬もありました。
しかし神の前でへりくだる心を失っていました。
そのため、救い主が目の前に立っていても受け入れることができなかったのです。
この箇所が私たちに語ること
私たちも信仰生活が長くなるにつれて、
外側の正しさに安心してしまうことがあります。
礼拝に出席し、
奉仕を行い、
聖書を学んでいても、
心が神から離れてしまうことがあります。
イエスが求めておられるのは、見せかけの敬虔さではありません。
神を愛し、神の光を受け入れ、そのみことばに従う心です。
だから私たちは他人を吟味する前に、
「私の内側はどうだろうか」
と神の前で自分を顧みる必要があるのです。
この箇所の中心メッセージ
神は外側の宗教性ではなく心を見ておられる。
光が与えられていても、心が閉ざされているなら神の真理を見ることはできない。
真の信仰とは、神のことばを受け入れ、神を愛し、内側から従うことである。
「あなたがたは杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。」(ルカ11:39)
「あなたの中の光が暗闇にならないように注意しなさい。」(ルカ11:35)

