ルカ15:1-7 失われた羊のたとえ

失われた者を捜し続ける神

ルカ15章は、「失われたもの」が見つかる喜びを描く章です。

ここには、

  • 失われた羊
  • 失われた銀貨
  • 放蕩息子

という三つのたとえが並んでいます。

その最初に語られるのが「失われた羊のたとえ」です。

このたとえは、

神が失われた者をどれほど愛し、どれほど熱心に捜しておられるか

を教えています。


なぜこのたとえが語られたのか

イエスのもとには、取税人や罪人たちが集まって来ていました。

するとパリサイ人や律法学者たちは不満を口にします。

「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事までしている。」

彼らは、自分たちを正しい者と考え、罪人たちを見下していました。

しかしイエスは、その不満に答えるためにたとえを語られます。

問題は、

「なぜ罪人を受け入れるのか」

ではありませんでした。

むしろ、

「なぜ神が罪人を喜んで受け入れるのか」

を教えるためだったのです。


一匹の羊を捜す羊飼い

イエスはこう語られます。

「あなたがたのうちのだれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹を失ったらどうするでしょうか。」

羊飼いは九十九匹を残し、

「その羊を見つけるまで」

捜し回ります。

ここで大切なのは「見つけるまで」という言葉です。

羊飼いは少し探して諦めるのではありません。

見つかるまで捜し続けます。

羊は自力で戻って来ることができません。

方向も分からず、危険の中にいます。

だから羊飼いの方から捜しに行く必要があるのです。

イエスはここで、神ご自身の姿を羊飼いとして描いておられます。


喜んで肩に担ぐ羊飼い

羊飼いは羊を見つけると、

「喜んで肩に担ぎます。」

とは言っても、迷った羊は褒められるようなことをしていません。

自分で帰って来たわけでもありません。

迷い出たのは羊の側です。

それでも羊飼いは怒るのではなく、喜びます。

そして家に帰ると、

「一緒に喜んでください。」

と友人や近所の人々を呼び集めます。

たとえの焦点は、

羊の失敗ではなく、

羊飼いの喜びなのです。


天にある喜び

イエスはこのたとえを次のように説明されます。

「悔い改める一人の罪人については、天に大きな喜びがあります。」

私たちは神を、

罪人を裁きたがる方のように考えてしまうことがあります。

しかしイエスが示される神は違います。

神は失われた者が見つかることを喜ばれる方です。

罪人が立ち返る時、

天には喜びが起こります。

ここには、罪人を受け入れていたイエスの行動の理由が示されています。

イエスは罪を軽く見ていたのではありません。

失われた者を救うために来られたのです。


九十九匹とはだれか

イエスは、

「悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりも」

と言われます。

これは本当に悔い改めが不要な完全な人がいるという意味ではありません。

文脈から考えると、パリサイ人たちが自分たちをそう思っていたことへの皮肉でしょう。

彼らは自分を正しいと考えていました。

そのため、自分もまた神の憐れみを必要とする罪人であることに気づいていませんでした。

しかし神の喜びは、

自分の必要を認めて神に立ち返る者の上にあります。


このたとえの中心

このたとえは、

「迷わないようにしなさい」

という教えが中心ではありません。

また、

「もっと頑張って神のもとへ帰りなさい」

という話でもありません。

中心にいるのは羊ではなく羊飼いです。

ルカ15章全体が示しているのは、

神が失われた者を捜し、見つけ、喜ばれる方である

ということです。

そしてその羊飼いの姿は、まさにイエスご自身を表しています。


この箇所が私たちに語ること

私たちは時に、

「自分は神から遠く離れてしまった」

と思うことがあります。

また、

「あの人はもう変わらない」

と考えてしまうこともあります。

しかし神は諦めておられません。

失われた羊を捜した羊飼いのように、神は今も人を捜しておられます。

そして一人の人が神に立ち返る時、

天は大きな喜びに包まれます。

だから私たちも、誰かを見限るのではなく、失われた者を捜し続ける神の心を学ぶよう招かれているのです。


この箇所の中心メッセージ

神は失われた者を見捨てず、捜し続けておられる。

そして一人の罪人が悔い改めて神に立ち返る時、天には大きな喜びが起こる。

イエスは失われた者を捜して救うために来られた救い主である。

「あなたがたに言います。それと同じように、悔い改める一人の罪人については、天に大きな喜びがあります。」(ルカ15:7)