ルカ18:1-14 祈りと義認のたとえ
神の国の民はどのように神の前に立つのか
ルカ17章でイエスは、神の国はすでに来ていること、そしてその完成を待ち望みながら生きるよう教えられました。
続く18章では、
神の国を待つ者は、どのような心で神の前に立つべきか
が語られます。
ここには二つのたとえがあります。
- やもめと不正な裁判官
- パリサイ人と取税人
一見別々の話ですが、どちらも
神を信頼して祈り続けることと、自分ではなく神の憐れみに頼ること
を教えています。
あきらめずに祈るやもめ
イエスはまず、
「失望せずにいつも祈るべきこと」
を教えるためにたとえを語られます。
ある町に、
神を恐れず、人を人とも思わない裁判官
がいました。
そこへ一人のやもめが何度も来て、
「私の相手をさばいてください。」
と訴えます。
裁判官はしばらく取り合いませんでした。
しかし最後には、
「このやもめがうるさいから」
という理由で願いを聞き入れます。
神はなおさら応えてくださる
イエスはここで、神を不正な裁判官になぞらえているのではありません。
むしろ対照です。
不正な裁判官でさえ願いを聞くなら、愛と正義に満ちた神はなおさら、ご自分の民の叫びに耳を傾けてくださいます。
だから私たちは、すぐ結果が見えなくても祈り続けることができます。
神は無関心だから遅れているのではありません。
神の時に従って働いておられるのです。
人の子が来る時
たとえの最後でイエスはこう言われます。
「人の子が来る時、地上に信仰を見いだすでしょうか。」
ここでいう信仰とは、単なる教理的理解ではありません。
神を信頼し続ける姿勢です。
神の国の完成を待ちながら、
祈り続け、
期待し続ける信仰なのです。
神殿で祈る二人
続いてイエスは、
「自分を正しいと確信し、他の人々を見下している人たち」
に向けてたとえを語られます。
神殿で二人が祈っていました。
一人はパリサイ人。
もう一人は取税人です。
当時、パリサイ人は敬虔な人の代表でした。
取税人は罪人の代表でした。
聞いている人々は、当然パリサイ人が模範になると思ったことでしょう。
自分を誇るパリサイ人
パリサイ人はこう祈ります。
「神よ。私はほかの人たちのようではありません。」
そして、
- 強奪する者ではない
- 不正な者ではない
- 姦淫する者ではない
- この取税人のようではない
と言います。
さらに、
「私は週に二度断食し、収入の十分の一をささげています。」
と語ります。
彼の言葉は事実だったかもしれません。
しかしその祈りの中心は神ではなく、自分自身でした。
彼は神へ向かって語っているようで、実際には自分の正しさを並べていたのです。
憐れみを求める取税人
一方、取税人は遠くに立ち、天を見上げることさえできません。
胸をたたきながら言います。
「神よ、罪人の私をあわれんでください。」
彼は自分を弁護しません。
比較もしません。
ただ神の憐れみを求めます。
ここには、自分の必要を知る人の姿があります。
義とされたのはどちらか
そしてイエスは驚くべき結論を語られます。
「この人が、義と認められて家に帰りました。」
義とされたのは取税人でした。
これは当時の人々には衝撃的だったでしょう。
イエスは、取税人の罪を軽く見たのではありません。
むしろ彼だけが、自分の罪を認めて神の憐れみに頼ったのです。
神の前で義とされるのは、自分の正しさを持ち出す人ではなく、
神の恵みに頼る人なのです。
高ぶる者とへりくだる者
最後にイエスはこう締めくくられます。
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」
これはルカ福音書全体を貫くテーマです。
- マリアの賛歌
- 放蕩息子の兄と弟
- 金持ちとラザロ
にも同じ逆転が描かれていました。
神の国では、人間の功績ではなく、神への信頼とへりくだりが大切なのです。
この箇所が私たちに語ること
神の国は、十分に立派になった人が入る場所ではありません。
また、自分の功績を積み上げた人への報酬でもありません。
むしろ、
「神よ、あわれんでください。」
と神に頼る者が迎え入れられる世界です。
そして、そのような人は神を信頼して祈り続けます。
神の国の民とは、自分の正しさではなく、神の憐れみによって生かされる人なのです。
この箇所の中心メッセージ
神の国の民は、自分の功績ではなく神の憐れみに頼って生きる。
神はご自身を信頼して祈り続ける者の声を聞かれ、高ぶる者ではなくへりくだる者を義とされる。
「神よ、罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(ルカ18:14)


