マルコ15:16-41 十字架刑
王としてあざけられる主(15:16-20)
兵士たちはイエスを総督官邸の中へ連れて行き、隊全体を呼び集めました。
そして紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶせます。
さらに、
「ユダヤ人の王、ばんざい。」
と言って敬礼し、
頭をたたき、
つばきをかけ、
ひざまずいて拝むまねをしました。
彼らはイエスを王として嘲笑しました。
しかし皮肉なことに、彼らがあざけっているその方こそ真の王でした。
ゴルゴタへの道(15:21-24)
兵士たちはイエスを十字架につけるため連れ出します。
途中でクレネ人シモンが無理やり十字架を担がされました。
そしてイエスはゴルゴタ、
「どくろの場所」
へ連れて行かれます。
苦痛を和らげる没薬入りのぶどう酒が差し出されましたが、主は受けられませんでした。
やがて兵士たちはイエスを十字架につけ、その衣を分け合いました。
十字架上の王(15:25-32)
時は午前九時頃でした。
十字架には罪状書きが掲げられます。
「ユダヤ人の王」
これは嘲りの意味で記されました。
しかしマルコは、この言葉が真実であったことを読者に示しています。
イエスは二人の強盗の間に十字架につけられました。
通りかかる人々も、
祭司長たちも、
律法学者たちも、
「自分を救って十字架から降りて来い。」
とあざけります。
しかしイエスは降りて来られませんでした。
人々を救うためには、その十字架に留まらなければならなかったからです。
見捨てられた叫び(15:33-36)
正午になると全地が暗くなり、午後三時まで続きました。
そしてイエスは大声で叫ばれます。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
という意味です。
詩篇22篇の言葉です。
イエスは十字架の上で、人類の罪を負う苦しみを味わわれました。
ここに十字架の深い奥義があります。
罪のない神の子が、罪人の立場に立たれたのです。
神殿の幕が裂ける(15:37-38)
イエスは大声を上げて息を引き取られました。
その時、
「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」
とあります。
神殿の幕は聖所と至聖所を隔てていました。
その幕が裂けたことは、神と人との間を隔てていた壁が取り除かれたことを示しています。
十字架によって、神への道が開かれたのです。
百人隊長の告白(15:39)
イエスの正面に立っていたローマの百人隊長は、その死にざまを見て言いました。
「本当に、この人は神の子であった。」
これはマルコ福音書の重要な頂点です。
福音書の冒頭で、
「神の子イエス・キリストの福音」(マルコ1:1)
と宣言されていました。
そして十字架の下で、一人の異邦人がその真理を告白するのです。
最後まで見届けた女性たち(15:40-41)
多くの弟子たちは逃げ去っていました。
しかし遠くから見ていた女性たちがいました。
- マグダラのマリア
- 小ヤコブとヨセの母マリア
- サロメ
です。
彼女たちはガリラヤの時からイエスに従い、仕えてきた人々でした。
十字架の場面でも最後まで残り続けました。
彼女たちは後に復活の証人ともなります。
十字架の意味
この箇所の中心は、イエスの苦しみそのものではありません。
マルコが示しているのは、
十字架こそ神の子の王座である
ということです。
人々は王なら十字架から降りるべきだと考えました。
しかしイエスは降りませんでした。
なぜなら、
人々を救うためには十字架に留まる必要があった
からです。
王としての勝利は力によってではなく、犠牲によって成し遂げられたのです。
この箇所が私たちに語ること
十字架は人間の目には敗北に見えます。
しかし神の目には救いの完成でした。
私たちはしばしば力や成功の中に神の働きを求めます。
しかし神は十字架という最も弱く見える場所で救いを実現されました。
だから私たちの希望は、自分の強さではなく、十字架でご自身を与えてくださったキリストにあるのです。
この箇所の中心メッセージ
イエスは十字架の上で人々の罪を負い、そのいのちを献げられた。
人々は王をあざけったが、十字架こそ神の子の王座であった。
主の死によって神への道が開かれ、救いがすべての人に差し出されたのである。
「本当に、この人は神の子であった。」(マルコ15:39)

