「日本人は無宗教なのに道徳的」の議論を見て、キリスト教の牧師として思うこと

先日、Xでこんな投稿が大きな反響を集めていました。

「日本人は無宗教でどうやって道徳を身につけるんだい!?とか言ってる国しょっちゅう暴動や略奪してるけどお得意の宗教で身につけた道徳どこ行ったの?」

5万件を超える「いいね」が付き、多くの人が共感を示していました。

僕はキリスト教の牧師です。しかもキリスト教は、多くの日本人から見れば「外国の宗教」と見なされることが少なくありません。
だからこそ、この投稿を興味深く読みました。
そして同時に、どこか怖さも感じました。

宗教があっても人は罪を犯す

まず最初に言いたいのは、この投稿が指摘していることの一部は正しいということです。

宗教を信じているからといって、その人が道徳的になるわけではありません。
実際、宗教の盛んな国でも暴動や略奪は起こります。
キリスト教国と呼ばれる国々でも戦争は起きます。
これはキリスト教にとって、決して都合の悪い事実ではありません。
なぜなら聖書そのものが、「人間は宗教を持っていても罪人である」と教えているからです。

イエスが最も厳しく批判した相手も、宗教に無関心な人たちではありません。誰よりも熱心で、敬虔で、宗教的だった人々でした。

つまりキリスト教は、「宗教を持てば善人になれる」という教えではありません。
むしろ、「善人になれない人間だからこそ、神の恵みが必要である」という教えです。

ですから、「宗教があるのに暴動を起こしているじゃないか」という批判に対して、私は反論しようとは思いません。
むしろ、「その通りです。だからこそ人間には救いが必要なのです」と答えるでしょう。

日本人は本当に無宗教なのだろうか

一方で、「日本人は無宗教なのに道徳的だ」という話になると、僕は首をかしげてしまいます。

日本人の多くは自分を無宗教だと言いますが、実際には、初詣に行く・お墓参りをする・先祖を敬う・七五三を祝う・仏式や神式の儀礼を行うといった宗教文化の中で生活しています。
それは欧米でイメージされる「無宗教」とはかなり違います。

日本人は宗教がないのではなく、特定の宗教への所属意識が薄いだけで、長い歴史の中で形成された宗教文化や価値観の影響の中で生きていると言った方が正確でしょう。

また、日本の中で見られるアニメやアイドルに対する推し文化は驚くほど宗教的です。
もちろん、宗教団体として存在するわけではありませんが、儀式的なものや聖地が存在し、まるで教義が存在するかのように「解釈不一致」によって争いが起こります。
ファンとアンチがSNSで争うさまは、まさに宗教戦争のようです。

日本人は決して無宗教なのではなく、元々持っていた宗教が文化として溶け込んでいたり、宗教として認識されないような形で宗教的なものが広がっているのだと考えています。

「空気を読む日本教」という見方

近年、「空気を読む日本教」という言葉を耳にすることがあります。
もちろん宗教団体として実在する宗教ではありませんが、比喩としては非常に示唆的です。

その教義は、「周囲に迷惑をかけるな」
その戒律は、「空気を読め」
その裁きは、「仲間外れ」と言えるかもしれません。

この価値観は、日本社会に秩序をもたらし、犯罪率の低さや公共マナーの良さなど、日本社会の長所も数多く生み出してきました。
しかし同時に、

  • 本音を言えない

  • 弱音を吐けない

  • 助けを求められない

  • 周囲と違うことができない

  • 失敗することが怖い

という生きづらさも生み出しています。
秩序を生み出す価値観は、時として人を縛る価値観にもなるのです。
この構造もまた、宗教と同じです。

戦争と自殺、どちらも人間の問題

今回の投稿には、「宗教国は戦争や暴動を起こしている」という批判が込められています。

確かに戦争は悲惨です。

しかし僕はそれと同時に、日本社会が抱える別の問題にも目を向けたいと思います。

それは孤独や絶望、自殺の問題です。
もちろん自殺の原因は一つではありません。
経済的な問題もありますし、家庭環境や精神的な病気の問題もあります。

しかし、
「人に迷惑をかけてはいけない」
「弱さを見せてはいけない」
「みんなに合わせなければならない」
という圧力が、多くの人を苦しめていることも事実でしょう。

その意味では、暴動がないことが必ずしも人を生かす社会を意味するわけではありません。
目に見える暴力が少なくても、目に見えない苦しみが存在することがあります。

私が最も怖いと感じたこと

しかし実は、僕が最も気になったのは投稿の内容そのものではありません。
その投稿が大きく支持された理由です。

そこには、「自分たち(日本)は正しい」「相手(外国)は間違っている」という感情が混じっていないだろうか。

そんなことを考えました。

この投稿は表面上、「宗教があっても人間は道徳的とは限らない」という主張です。

しかしその奥には、「ほら見ろ。自分たちの方が優れているじゃないか」という優越感が潜んでいるようにも見えます。

でも、それは結局のところ、暴動を起こす人々と同じ問題なのではないでしょうか。少なくとも、SNSにあふれる争い・見下し・怒り・憎しみ・承認中毒などを見る限り、平和で道徳であるとは到底思えません。

人間は誰もが、「自分は正しい」「相手は間違っている」と思いたがります。

宗教を持っている人もそうです。
そして、持っていない人もそうです。

保守もリベラルもそうです。

日本人も外国人もそうです。

問題は宗教の有無だけではありません。
人間の心そのものなのです。

牧師としての結論

僕はキリスト教の牧師ですが、日本社会の良さをたくさん知っています。
親切さも、誠実さも、秩序を大切にする精神も尊敬しています。

しかし同時に、その社会の中で息苦しさを感じ、生きづらさに苦しむ人々とも数多く出会ってきました。

だから僕は、「日本は素晴らしい」とも、「外国の宗教こそ正しい」とも言いたくありません。

むしろこう考えています。

宗教があっても人は罪を犯します。
宗教がなくても人は他人を裁きます。

人は必ず何かを絶対化し、その中で自分と他者を比較し続けます。

だから本当に必要なのは、「自分が正しいことを証明すること」
ではなく、「自分もまた恵みを必要としていることを認めること」
なのだと思います。

SNSでは、「あいつらがおかしい」という言葉が注目を集めます。

しかし福音はいつも、「あの人ではなく、まず私自身の心を見なさい」と語りかけてきます。

僕はその声にこそ、耳を傾けたいと思うのです。