創世記18章 アブラハムのとりなし

3人の天使

アブラハムの元を、3人の人が訪れました。
アブラハムは「主」と呼んでいますから、受肉前(イエスさまとして生まれる前)の御子と、天使たちだったようです。
アブラハムは彼らを迎え入れ、食事を振る舞います。

主は、これまで約束してきた子どもが、ついに来年授かることをアブラハムたちに伝えました。
すると、近くにいたサラが、それを聞いて、心の中で笑いました。

創世記 18:12 サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」

とっくに閉経しているし、今更子作りの楽しみもないでしょうにと笑ったわけです。
100歳のおじいさんと、90歳のおばあさんですから、常識的に考えれば、確かにそうですよね。

でも、主はこのように言って、サラの不信仰を叱りました。

創世記 18:13 【主】はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。
18:14 【主】にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」

アブラハムの時もそうでしたが、僕たちは自分の常識ですべてを計ろうとしてしまいますね。
でも、神さまは僕たちの常識の範疇にはいないことを忘れてはいけないなぁと思います。

滅びの計画

さて、アブラハムの元を去る前に、主はこのように思われました。

創世記 18:17 【主】はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。

主は、その思われることをしもべである私たちに教えてくださる方です。
僕たちの方が、まず「聞く」というこをするべきですね。
神さまは僕たちに、その計画を教えてくださいます。
そして、主が僕たちに教えてくれるなら、そこには意味があります。
この時に主が教えてくださった計画は、これからソドムとゴモラに起こる出来事についてのことでした。

創世記 18:20 【主】は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。
18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。」

ソドムとゴモラの悪は、もう誰にも留められないほどに酷い状態でした。
神さまは、この街を滅ぼさなければならないと思っていました。
主は、それがどれほど酷いものなのか、実際に見に行こうとされていたのです。

そんなことを言っても、神さまはソドムとゴモラの状態なんて判っていますよね。
それをわざわざ人間の姿になって、実際に見に行くと言うわけです。
この辺りが、神さまの驚くべきやさしさだと思います。
神さまは、悪を見逃すお方ではありませんが、少しでも時間を待って、悔い改めるチャンスを与えているのです。
特にこらからご自身がそこに行くことによって、何かを気づいたり感じたりする人がいるかもしれないと、神さまは思ったのではないでしょうか。

アブラハムのとりなし

自分ではない誰かのために祈ることを、キリスト教用語では「とりなし」と呼びます。
アブラハムは主の前に立って、ソドムとゴモラの滅びを思いなおすようにとりなしました。

最後には、「10人でも正しい人がいたら助けてください」とアブラハムはソドムとゴモラのためにとりなしました。
しかし、ソドムとゴモラには10人も正しい人はいなかったために、滅ぼされることとなります。

本当の意味で正しい人なんて、最初から一人もいません。
ここで言う正しい人とは、真の神さまを求めている人です。

結局は、この街で救われたのはロトと娘たちだけでしたが、それもロトがアブラハムの影響で少し知っていたというくらいのもので、彼自身の信仰も怪しいものでした。
ロトの信仰ゆえにというよりは、アブラハムのとりなしのゆえに、ロトと娘たちは救われたのです。

僕たちも、イエスさまによってとりなされています。
そして僕たちも、身近な人たちのためにとりなして祈っていく必要がありますね。