聖書の中の救いってどういうこと?

満たされない穴

僕達はこの世に生を受けている以上、生きていかなければならない。
朝目覚め、飯を喰らい、仕事をして、眠る。
しかし、こんな生活を続けていては、生きていることを実感できない。
ただ命を延ばしていくためだけに生きるなんて。
そこで、僕達は心のどこかにある穴を埋めようとする。

おしゃれをしてみたり、体を鍛えてみたり、買い物をしてみたりしてみる。
ちょっとスッキリしたような気分になるけど、やはり何かが満たされない。

もう少しお金があれば、あの車に乗る事ができたら、マイホームを持つ事ができたら、自分の生活は変わる。
人生は変わる。
心が満たされて幸せになれるに違いない。

しかし、そのどれが満たされたとしても、心の底から満足する事はできない。

そこで、心の世界に踏み込んでみる。
哲学書を読んでみたり、瞑想にふけってみたり、宗教を信じてみたりするけれど、やはり何かが足りないような気がしてしまう。

恋人がいたら、結婚したら、友達ができたら何かが変わるんじゃないか?
しばらくは何かが変わったような気分になるけれど、それでも満たされていない自分に気づいてしまう。

僕達は渇いている。
どうしたら満たされるのだろうか?

実は、僕達の心の一番奥には、肉体的な満たしによっても、精神的な満たしによっても決して満たされない穴が開いている。
それが、僕達の中に決して満たされない渇きを与えているんだ。

ヨハネ 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

その穴とは何なんだろうか?
そんな穴が、どうして僕達の中にあるんだろうか?
イエス様によって渇きが満たされると言うのはどういうことなんだろうか?

善と悪の基準

神様は、僕達を愛するために創られた。
僕達は、神様を喜ばせる存在として創造されたんだ。

さて、初めの人、アダムに神様はこう言った。

「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16~17)

アダムは、園のどの木からでも取って食べてよかった。
善悪の知識の木からは取ってはならなかったけど、他に食べるものはいくらでもあったので、そんなものは食べる必要がなかった。

ところで、人間には、自由意志というものが与えられている。
はっきりしたことを聖書から直接言う事はできないけれど、おそらく天使と人間だけが、“神様に逆らう事ができる”という自由意志を与えられた存在だろう。

そんな自由意志が与えられた人間にとって、神様に従うということが神様と愛の関係にあるという一番の証だった。

食べたら死んでしまうような木に、どうして“善悪の知識の木”などという名が与えられたのか。
それは、この木からは取って食べない事を通して、人間は善悪を知ることが出来たからではないだろうか。
神様が取って食べる事を禁じたその命令に従う事が善であり、背く事が悪なのだ。

僕たちは、道徳的な価値観や、人を傷つけたり、迷惑をかけたか否かで善悪を判断したりする。
でも、価値観が変われば善悪も変わる事になってしまう。

聖書的善悪は、実はそれよりももっとシンプルなんだ。
神様に従うか、それとも背くか?

生まれながらの僕たちは、神様の存在を気にもかけずに、無意識のうちに神様に背いてきた。
やがて神様の存在を意識し始めても、やはり自分の想いを優先にして、神様に背くのが僕達でもある。
それが、僕たちの罪の性質という奴だ。

罪の本質

やがてある時、アダムの妻イブが、サタンによって誘惑を受けた。 
蛇を通したサタンの誘惑はこういう言葉だった。

「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4~5)

“神のようになる”、それが罪の根源だ。 
イブはその誘惑に飲み込まれ、善悪の知識の木から取って食べてしまった。 
そして、それに続いてアダムもそれを食べた。 
その木の実によって人間は罪人になったのではない。 
もっと言えば、アダムとイブが神様に逆らったという事だけが問題だったのではない。 
この、“神のようになる”という思いが人間を罪人にしたんだ。 

アダムとイブに入り込んだ罪は、僕達の中にもある。 
僕達は、自分自信が自分の神だと思ってきた。

自分の人生は自分のもの。 
自分の事は自分が決める。 
自分の力で自分は生きている 
自分が、自分で、自分の喜びのために、この人生を生きている。 
すべてが自分、自分、自分。 
この自己中心こそ、罪の根源なんだ。 
そしてそれは、自分が神だと思うこと、あるいは神になろうとする思いから生まれている。 

さて、「この木からとって食べたら、必ず死ぬ。」と神様は言った。 
それなのに、アダムはその時に死ぬ事はなく、900年以上生きたと聖書には書かれている。 

アダムとイブは、実はその時死んでいたんだ。 
それは肉体的な死ではなく、精神的な死でもない。 
人間が神に似せて創られたもの、“霊”において死んでしまったんだ。 
霊的に死んでしまった僕達には、霊的な存在である神様を見る事も、感じる事もできない。 

「神を見せたら信じてやる。」という人がいるけれど、霊的に死んでいるんだから見る事ができないのは当たり前だ。 

愛される存在として創られた僕達人間は、罪にけがれ、霊的に死んでしまったとき、神様から愛される資格を失った。 
地上でもっとも素晴らしい存在として創られた僕達は、もう愛されるに足る存在ではなくなってしまった。 

人間がもたらした罪のけがれは世界をもけがし、世界は楽園ではなくなった。 
神様が創造した素晴らしい世界には、苦しみと、悲しみと、痛みがあふれる、不完全な世界になってしまった。 
そして今も僕達は、この世界を汚し続けている。 

どうして赦されるだろうか? 
どうして、人間が救われるということなどがあるだろうか? 

しかし、人が罪を犯した次の瞬間から、神様は救いの計画を始められた。 

創世記3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。 

聖書の中心メッセージは、ここにある。 
そして、この預言はすでにイエス様によって成就した。 
サタンの頭は、イエス様によってもう、踏み砕かれたんだ。 

ここから、人類の罪の歴史は始まる。 
しかし、それは神様による罪の贖いの歴史だ。 
そして、僕達はその結果を、少年ジャンプのマンガや、ハリウッド映画の結末のようによく知っている。 

勝利による、ハッピーエンド。 
その結末に向けて、僕達は今を生きている。 

自由意志と神の愛

神様が全知全能で、僕達人間を愛していると言うなら、神様はどうして人間に罪が犯せるようにされたのだろう。
神様が、人間に正しいことをして欲しいなら、正しい事しかできないように人間を作ればよかったのに。

一度ならず、そう考えた事がある人はいるだろう。

人間には、自由意志と言うものが与えられている。
それは、神様が僕達をロボットとしては創らなかったということだ。

手塚治虫の作品に、「火の鳥」というマンガがある。
このマンガ自体は輪廻転生をテーマとした仏教的価値観のマンガだけど、その中に興味深い話がある。

クリックすると新しいウィンドウで開きます猿田博士という不細工な科学者が、自分を愛させるために女性型のロボットを作るのだけど、どれだけリアルに作っても、何度作り直してみても、満足のいくロボットはできなかったという話だ。

「愛している。」という美人ロボットに、猿田博士は満足できない。
それは、愛していると言わせているのは自分自身であって、ロボットが愛してくれているのではないからだ。
博士が求めていたのは、愛される事だったんだ。

神様は、僕達が神様を愛する事ができるように創造した。
それは同時に、神様に逆らう事ができることをも意味している。

神様は、自由意志を与えて人間を作って見たけど、思うように動いてくれないからかんしゃくを起こして僕達を裁こうとしているのではない。

人間が罪を犯す前から、神様から離れる事がそのまま死を意味する事は伝えていたんだから。
神様から離れた存在を滅ぼすという神様の意志だって、不思議な事は何もない。
神様から離れてしまった存在は、世界を破壊に導くものなんだから、世界を守るためには仕方が無いことだろう。

考えてみれば、僕達人間が存在しているということは、世界の犠牲の上に成り立っている。
せっかく神様が創ったこの世界を、僕たちはどれだけ破壊してきた事だろう。
世界を守るためにも、神様は人類をすぐに滅ぼす事だってできたはずなのに、世界に害を与える人間の存在を、今も許し続けている。

それだけではない。
滅ぼされて当然の僕達を救うために、神様はご自分のひとり子の犠牲さえもいとわなかったんだよ。

こんな理屈に合わない事を、神様はどうしてしたんだろう?
神様は全地全能なんだから、もう少し賢いはずなのに。

それは、愛のためだと聖書はいう。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

神様は、そのひとり子を犠牲にしてくださるほどに、僕達を愛された。
即座に滅びるのが当然だった僕達には、今ふたつの選択肢が与えられている。

・ ひとり子の犠牲を無駄にしてでも、そのまま滅びるべき運命を享受するか。
・ それとも、神様の愛を信じて、救いを受け取るか。

僕たちは、どちらを選ぶべきだろう?

十字架の意味と赦し

どんなに良いことをしても、天国に行けないということに疑問を感じる人は多い。
でも、聖書で言う罪というものは、僕達が誰かを傷つけたとか、道徳的に悪い事をしたという話とは根本的に違うという事がわかってきただろうと思う。
罪とは、僕達が神様から離れ、自分自身を神様としたという事にある。
僕達が神様から離れてしまっているので、人を傷つけたり、道徳的に悪い事をしてしまう罪の性質をもっているんだ。

だから、表面的にいくら良い事をしてみたところで、本質的な罪の部分は何も変わらない。
罪を解消するためには、神様との関係か回復するしかないんだ。
ところが、僕たちと神様との絆を結ぶ霊の部分は、僕達が罪を犯す事によって死んでしまっている。
アダムとエバが善悪の知識の木から取って食べて以来、僕達人類は霊的に死んだ状態で生まれてきているのだから。

イエス様の十字架とは、一言で言えば、この死という膨大な借金を、僕たちに代わって肩代わりしてくださったということなんだ。

僕たち人間は、みんな罪びとなので、誰かの代わりに死を支払うことはできない。
自分の分の支払いがあるからだ。

罪なしに生まれてきたイエス様だけが、誰かのために支払う能力を持っているんだ。
それは、罪がないのに、その結果だけを引き受けることを意味している。

そして、神様であるイエス様は、僕たち全人類の死を一手に引き受けて、死んでくださった。
その肩に、全人類の罪を背負って。

イエス様が、苦しみにまみれた最後を送らなければならなかったのはそのためだ。
そしてそれは、肉体的な苦痛だけを意味してはいなかった。

世の初めから神様と共にいて、決して離れたことのなかった天のお父様との断絶。
この世から完全に希望が失われてしまう絶望的な闇を、イエス様は経験した。

イエス様が十字架で口走ったことば、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という嘆きの言葉は、愛する父との関係を失ってしまったその絶望を意味している。

僕たちが自分の罪に苦しみ、神様との断絶に絶望するのは当然の結果だ。
しかしイエス様は、経験する必要のなかった苦しみを、僕たちのために全て背負って、十字架についてくださった。

イエス様の、十字架上での最後の言葉は、「完了した。」だった。
それは、ギリシア語で「テテレスタイ」という言葉。
「支払い終了」を表す言葉である。
その時、罪の支払いがすべて終了した。

救いを受け入れる

イエス様が、人類全ての罪を背負ってくれたなら、世界中すべての人が天国に行くということだろうか?
残念ながら、そうではない。

僕達はロボットではなく、自由意志があるからだ。
イエス様が勝手に、僕達の罪だけを取り去る事はできない。
僕達は選ばなければならない。
イエス様の救いを受けるか、拒否するか。
そう、僕達にはまだ、拒否する自由が与えられているんだ。

受け取る方法はシンプル。
今までの自分のあり方が罪だったことを認め、イエス様の十字架によって赦された事を信じる事だ。
僕達が神様の愛を信じて、それを受け取るとき、十字架は僕達にとって救いとなる。

しかし、自分が自分の神となっている事を罪だと認めず、イエス様の十字架の愛を不必要なものだと言い張るなら、その人たちにとって救いは何の関係もない事だ。

信じた人は神様との関係を持ち、死後神様のいる天国に行く事ができる。
しかし、神様との関係を拒絶する人は、死後神様のいないところ(地獄)に行く事になる。
そう考えるなら実に当たり前のことで、善い人であるかどうか、良い事をしたかどうかとは本質的に違うのだということが理解できると思う。

世界中のあらゆる宗教が、どうしたら良い人間になれるのかを教えている。
人間的なレベルで考えるなら、時としてそういった宗教はよい社会を作るために素晴らしい働きをするだろう。
また、人の心を楽にさせてくれたり、道徳的な正しさや、優しさを教えてくれるだろう。

しかし、その全ての価値観は、自分自身が神であるという罪の状態を前提条件としていることを忘れてはならない。
ある宗教にいたっては、そのものずばり、いかに自分が素晴らしい神になるかを教えているのだから。

冷静になってみれば、本来誰にだってわかる事だ。
僕達は神じゃない。
僕達はまず、そんな当たり前のところから始めなければならないのではないだろうか?

Iコリント 2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

 

心の穴を埋める神の霊

最初の疑問にもどろう。
僕達の中の心の穴はなんだろう?
どうやったら、その穴は埋まるんだかろうか?

僕達の心の中にある穴、それはアダムとイブが善悪の知識の木から取って食べてしまったときに死んでしまった部分。
それこそ、僕達と神様を結んでいた霊があったところ。

僕達人間は霊的に死んでしまったので、そこに空虚感を持っている。
それだけではない、それまで霊によって感じる事ができていた神様の愛を、感じる事ができなくなってしまったんだ。

僕達は、異性や両親にその愛を求めている。
あるいは、他の人から完全の愛で愛される事を求め続けている。
しかし、実は人間ではその穴を埋めることはできないんだ。

イエス様は復活したのに、また天に昇って、この世界に留まってはくれなかった。
それは、イエス様の代わりに聖霊が来て、僕達の慰め主としてこの世に留まるためだったという。

聖霊様は、穴だけになってしまった僕達の失われた部分に収まる唯一の存在だ。
聖霊様は、僕達が必要としているものを教え、与えてくれる。
聖霊によってしか、僕達はイエス様の言葉を聞き分け、神様の愛を感じる事ができない。
聖霊だけが、僕達を満たしてくれる存在なんだ。

僕達が、自分を神としている罪を認め、イエス様が神様であり唯一の救い主である事を信じたとき、聖霊は僕達みんなに与えられている。
でも、聖霊を実感として感じられない人もいるね。

僕達の肉の性質は、聖霊が与えられた後も、聖霊によってではなく、肉体的な方法で、あるいは精神的な方法で心の穴を埋めようとしているからだ。
僕達の心の穴に聖霊が満ち満ちてくださった時、僕達は聖霊の満たしを経験する。
穴を満たした聖霊の力は内側から、僕達の精神と、肉体に影響を与えていく。

そして僕達は徐々にキリストに似たものへと変えられていく。
それは、人格や個性がなくなってひとつとされていくのではなく、僕達が本来創造されたキリストの体として完成していく事を意味している。
聖霊による成長によってこそ、僕達は本当の自分になることができるんだ。
例え聖霊に満たされなくても、僕達は死ねば天の御国に行く事ができる。
でも、僕達はこのようにして、生きているうちから天の御国を体験する事ができるんだ。

最後は、この聖書の言葉で締めくくりたい。

どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
(エペソ 3:16~19)