愛について考えてみよう④

目次

愛は真理を喜ぶ

Iコリント 13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。

時に教会には、お金を求めてやってくる人たちがいる。 
貧くて困っているというのだけれど、かわいそうに思って教会員の人たちがお金を貸したりして助けようとしていると、ある時そのお金はギャンブルに注ぎ込まれていたことがわかって驚かされたりする。 

教会の人たちが“愛そう”とする想いを利用する人たちも、実は決して少なくはないのがこの世界だ。 
優しさや愛を実践しようとした結果、返って相手にとっては自立を妨げる結果になることだって少なくはない。 
職を失って困っている人たちにお金をあげる事より、その人が自分の力で働く道を作っていくことの方が大切だ。 

また、教会の中で明らかな罪の中にいる人に対する対応も、とても難しいところだと思う。 
そういう罪の中にいる人たちほど、神様の愛を必要としている人たちでもあるから、それを注意することは簡単でも、「それによって教会に来なくなってしまったら」と、色んなことを考えてしまうだろう。 

罪を、ただ道徳的な事として扱ってしまうなら、注意することも相手に対する糾弾となってしまう。 
罪は、人を傷つけ苦しめるものだから神様がそれを望まないんだという事をよく理解して、その人がそこから離れる手助けをしてあげる事も大切なことだと思う。 
もっとも、本人が望んでその中にい続けようとするなら、そこから引き離すことは並大抵のことではなくなるだろうけれど・・・。 

イエス様は、罪を戒める方法としてこのような事を言っている。

マタイ 18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

最後の、“異邦人か取税人のように扱う”という事の意味にはいろいろな捕らえ方があるだろう。 
それが金銭に絡むことであったり、性的な問題であるなら、その群れから引き離されることも必要なことだろうと思う。 
でも、それほど問題が大きくないことに関しては、そういう対応がされるべきではないと僕は思う。 

僕はこの箇所の意味を、「信仰をもっていない求道者に対して諭すように、丁寧に教えてあげること。」として理解している。 
信仰をわきまえて主の弟子としての自覚を持つ人ほど厳しく、知らない人に対しては忍耐強く、ひとつひとつ教えてあげる必要があるんじゃないだろうか。 

僕たちが“愛において不正ではなく真理を喜ぶ”という事は、不正な者を追い出して真理を追究すると言うことではなく、その場だけの平和を求めて不正を許すのではなく、本当の幸せをもたらす真理を伝えることが本当の愛だという意味だと思う。 

そして、それを伝える中にも、十分な愛をもって伝えるようにと、僕たちは教えられているんじゃないだろうか。 

愛は耐え忍ぶ

Iコリント 13:7 13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

自分がどれだけいじめられ、傷つけられても、耐えて耐えて耐え続けるのが愛、ではない。 
日本人にはどうも、それを美徳とする文化があるようだけれど、ただひたすら我慢しなければならないとしたら、それは拷問でしかない。 

聖書が教える忍耐とは、ただ我慢することではなく、相手の変化を待つ心の事だと思う。 

産まれたばかりの赤ちゃんに、立ち上がることを強要する母親はいない。 
今日立てず、明日立てなくても、いつか立ち上がる時がくると信じて待つ心が愛には大切だ。 

僕たちは、変化を急いでしまう。 
言われたことをすぐに実行できないと、イライラしてくる。 
そんな時こそ、“待つ”愛が必要だ。 

そうは言っても、相手に何も伝えることなくただ変わることを待っていても変わるわけがない。 
そこには、我慢も必要だし、相手がやがて自分でできると信じ、期待し、耐え忍ぶ心が必要となる。 
相手に伝え続ける粘り強さも必要だ。 

僕は子供のころ、まったく勉強ができない子供だった。 
成績はずっと低く、要領が悪い子供だった。 
結局学校にいる間は成績に反映することはなかったけれど、その間にしてきた努力は、今忍耐強さとして残っていると思う。 

成果や結果を残さなければ意味がないのが僕たちが生きる世界。 
でも、神様が僕たちに求めているのは、たとえ成果や結果としては現れなくても、僕たちの心の奥底で起こっている確実な変化と成長だ。 

僕たちもまた、人の成長を粘り強く待つ心を育てていきたい。 
お母さんが、寝返りを打ち、ハイハイし、掴まり立ちするのをあたたかく見守るように、人の成長を励まし、助け、忍耐を持って見守っていこう。 
時が満ちれば、必ずその人は変わると信じて。