創世記34章 だまし討ち

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凌辱されたディナ

34章の出来事は、多くの人にとって「なんじゃこりゃ?」という出来事ではないかと思います。
聖書を初めて読む人たちがショックを受ける出来事のひとつです。

事のあらましは、レアが産んだヤコブの娘ディナが、近隣の部族だったヒビ人ハモルの子シェケムによって凌辱されるという事件から始まります。

痛ましい出来事でしたが、このことを通してシェケムはディナを慕うようになり、妻に迎えたいと願います。
そこでシェケムの父ハモルはヤコブのところに来て、ディナをシェケムの嫁として迎えたいと申し出ます。
さらに、私たちの娘からもあなたたちの嫁を迎えて欲しいと言うのです。
これは、ハモルたちの一族と、イスラエルとの強力な同盟関係を結ぶということです。
この時代の常識に当てはめて考えるなら、ハモルたちの態度はそれなりに誠実であり、筋も通っていました。

しかし、ヤコブの子どもたちはそれを許しませんでした。
「本気でそう思っているなら、私たちの一族と一つになるために、アブラハムの子のしるしである割礼を受けろ」という条件を出します。
しかも、一族の男たち全員に対してです。

割礼は男性器の包皮を切り取ることですから、かなりの痛みが伴います。
もし僕が、当時の方法で割礼を受けろと言われたら、かなり躊躇するでしょう。
それでも、ハモルと一族は、その条件を受け入れます。

創世記 34:18 彼らの言ったことは、ハモルと、ハモルの子シェケムの心にかなった。
34:19 この若者は、ためらわずにそれを実行した。彼はヤコブの娘を愛していたからである。彼は父の家のだれよりも敬われていた。

このように書かれているので、シェケムの想いは真実であり、誠実でもあったのだと思います。
ここにはディナの心がどうだったのかということは書かれていないので、そこには大きな問題がありますが、当時の社会の価値観では普通のことでした。
シェケムには問題もあったけれど、そこそこいいやつという描かれ方がされています。
ただ、ちょっと気になるのはその後に書かれている部分ですね。

創世記 34:20 ハモルとその子シェケムは自分たちの町の門に行き、町の人々に告げた。
34:21 「あの人たちは私たちに友好的だ。あの人たちをこの地に住まわせ、この地を自由に行き来させよう。この地は、彼らが来ても十分広いのだから。私たちは彼らの娘たちを妻に迎え、私たちの娘たちを彼らに嫁がせよう。
34:22 次の条件でなら、あの人たちは、私たちとともに住んで一つの民となることに同意すると言うのだ。それは、彼らが割礼を受けているように、私たちのすべての男たちが割礼を受けることだ。
34:23 そうすれば、彼らの群れや財産、それにすべての彼らの家畜も、私たちのものになるではないか。さあ、彼らに同意しよう。そうすれば、彼らは私たちとともに住むことになる。」

ハモルの言葉だと思いますが、これを見ると彼らの中には打算的な部分もあったことがわかります。
でも、一族を説得して割礼を受けさせなければならないことを考えれば、こういう言い方をするしかなかったことでしょう。

こうして彼らはヤコブの息子たちが出した条件を受け入れ、割礼を受けます。
ところが、次の事件が起こりました。
割礼を受けてその痛みのために動けないハモルの一族の町を、シメオンとレビが襲撃し、皆殺しにしてしまったのです。

これによってヤコブたちはこの近辺から逃げ出さなければならなくなり、ベテルに移ることになります。

この話をどう理解するか

旧約聖書には、こういう酷い話がしばしば出てきます。
ソドムとゴモラの話や、「聖絶」に関してもそうですが、こういう話しを見て、「だから聖書の教えは恐ろしい」とか、「だから一神教はダメだ」みたいなことを言う人たちもいます。
逆に、「正義のために相手を殺すことは聖書的に正しい」という主張もありますから、確かに気をつける必要がある部分ですよね。

大切なのは、

  1. この出来事が起こった時代背景を考えることと、
  2. この話が聖書に記されている意図を読み取ることです。

当時は、世界最古の法律と言われるハムラビ法典が作られてから、まだそれほど間もない時代です。
彼らが住んでいたのは法治国家ではなく、言っていれば無法地帯に近い状態だったということです。
この時代に起こった出来事を、現代の価値観で計ること自体が、そもそもおかしいのです。

もう一つ大切なのことは、旧約聖書の目的の一つが、人間が罪人であることを表すことにあるということです。
ここには、神さまから離れ、罪人となった人間がどのような状態になるかということが描かれているのです。

シェケムがディナを凌辱したことは、それ自体が悪い行いでした。
彼は人間的には良い部分も持っていたので、その後にその失敗を取り戻そうとします。
ハモルも息子を思い、割礼を受けるという犠牲を払うほどに愛もあった。

しかし、そこには重大な問題もありました。
選ばれた民となっていくイスラエルたちは、他の民族と混ざり合うわけにはいかなかったということです。

シメオンとレビがしたことは、当時の価値観から言っても裏切りであり、そのこと自体が評価されるべきことではありませんでした。
ディナに対する仕打ちへの報復ですから、それなりの正義もあったかもしれませんが、だまし討ちは卑怯です。
しかし、同期も方法も間違っていたこの事件を通して、イスラエルが他の人たちと混ざり合うという危機は回避することができました。
これは、シメオンとレビの手柄ということではなくて、こんな酷い出来事を通してでも、神さまの計画は実現するということです。

「聖書には正しい教えだけが書かれている」という考え方で聖書を読むと、聖書はかなり危険な書物です。
自分の中にある思い込みを外して読んでいくと、神さまが聖書を通して何を言いたいのかということが見えてくるものですよ。