創世記38章 汚れの中の光
タマル
何だこの話?
と思えて、実は全体の流れではめっちゃ重要なことがあったりするのが聖書のおもしろいところです。
38章の話も、実は大きな伏線だったりします。
さて、ユダはカナン人シュアという娘との間に3人の息子を授かります。
- エル
- オナン
- シェラ
エルはタマルという女性と結婚しますが、エルは何が問題だったのかはわかりませんが、主の裁きを受けて、若くして死んでしまいます。
エルには子どもがなかったので、ユダは弟のオナンに、兄嫁タマルとの間に子供を作りなさいと命じます。
?
なんじゃこりゃ?
ですよね?
これを理解するためには、当時の社会に常識としてあったレビラート婚というものを知ると意味が解ってきます。
レビラート婚というのは、当時の社会では弱い立場にあった女性、特にやもめ(未亡人)となった人たちを守るためにできた制度です。
当時の社会では、財産は息子たちだけに与えられるものでした。
妻には与えられないので、やもめになってしまうと将来的に生活することすら困難になってきます。
義父であるユダが生きている間は、まぁ生活は支えてもらえますが、ユダが死んでしまえば、財産は義弟たちに分配されるので、タマルは生きる糧を失うのです。
そこで、兄が死んでその家族にまだ子供(男)がない時には、弟が兄嫁と結婚し、子どもを作るという義務がありました。
これが、レビラート婚です。
オナンの罪とは?
さて、オナンがタマルを妻として迎えるわけですが、彼はその義務を果たさず、タマルとの間に子どもを授かることを拒否します。
どうしてでしょうか?
それは、タマルとの間に授かった子どもは自分の子どもではなく、兄エルの子どもとされてしまうからです。
その子どもが生まれてから父ユダが死ぬと、エルの分の財産をその子どもが相続することになります。
自分の取り分は減ってしまうのです。
長男の分の財産は、他の兄弟の2倍を受けますから、なおさらダメージが大きい。
せっかく兄が死んで、自分が長男としての財産を受けられるようになったのに、兄嫁との間に子どもを作って自分の財産を減らすのはバカバカしい。
だからオナンは、タマルとの間に子どもを授かることを拒んだのです。
その罪の裁きを受けて、オナンも死ぬこととなります。
さて、オナンの罪は何だったのでしょう?
実はオナンは、オナニーという言葉の語源となった名前です。
オナニーと言うのは自慰行為のことですね。
ある時代には、聖書のこの箇所を根拠に、オナニーはかなり悪い罪だということとなり、罰せられるようなことがありました。
でも、この時のオナンの罪は、別にオナニーをしていたことではありません。
タマルとの間にセックスをしていて、でも子どもを授からないように膣外射精をしていたということです。
では、膣外射精が死ななければならないほどの罪だったということでしょうか?
それも違います。
ここでオナンのしたことに問題があったとしたら、自分の財産に目がくらんで、従っているふりをしながらそれに背き、果たすべき義務を果たさなかったということでしょうか。
ただそれも、死ななければならないほどの罪なのかと言えば、微妙なところですね。
タマルと結婚したエルも、オナンも死んだ。
父であるユダにとっては、タマルは魔性の女のように見えたかもしれません。
唯一残ったシェラまで殺されてはたまらんと思ったユダは、シェラが成人するまでは、もめのまま暮らすようにとタマルに言い渡します。
しかしシェラが成人しても、タマルが妻として迎えられることはありませんでした。
ペレツ
その後、ユダは道端で遊女と出会い、関係を持ちます。
ところがそれは、遊女に化けたタマルだった。
こうしてタマルはペレツとゼラフという双子を授かり、結局は長男が生きていた場合よりも多くの財産を受けることになります。
責任を回避しようとしたユダの一家と、生き残るために知恵を尽くした女タマルといった感じの話なわけです。
ストーリーとしてはおもしろいですが、なぜこんな話が残されているのでしょう?
冒頭にも書きましたが、そこには重要な理由がありました。
その秘密が、マタイの福音書の中で明らかにされます。
マタイ 1:3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、
なんとびっくり。
救い主のルートが、ここに繋がっていたのです。
ユダの二人の子、エルとオナンが死んだのも、このことと関係があるのでしょうね。
エルの罪はわかりませんが、少なくともオナンは、救い主が生まれる機会を失わせようとしていたのです。
僕たちが背いても、神さまの計画は必ずなる。
しかし、その時に被ることになる痛みの大きさを考えると、神さまの計画を常に優先して考えたいものです。
さて、妻は死んでいたとは言え、ユダが果たすべき責任を負うのを拒み、姦淫を犯した結果授かった子の子孫として、救い主イエスさまは生まれてきました。
清く正しく生きようとする価値観は確かに必要です。
自堕落で、自己中心的に生きるのは自らを滅ぼします。
しかし、こうして罪が重なる場所を通しても、神さまは聖なるもの、素晴らしいものを生じさせます。
「罪や失敗があるから自分はもうダメだ」などとは思わないでください。
神さまを求めるところに回復があり、祝福があるのです。