出エジプト記3章 燃える柴

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神の山ホレブ山

イテロの羊飼いをしていたモーセは、ある時ホレブ山にやって来ました。
ホレブ山というのは後に出てくるシナイ山と同じ山の別名とされていますが、実はどこにあるのかがわかりません。
現在、シナイ山とされている山があるのですが、はっきりしたことはわかりません。
シナイ半島の南端の山が、現在ではシナイ山だろうとされていますが、アラビア半島側にあったのではないかという説もあります。

さて、モーセはその山で不思議なものを見ます。
それは、燃えているのに燃えつきつことがない柴です。

「燃えつきない柴」と言われてもピンとこないかもしれませんが、柴というのは細くて枝の多い小さな木です。
火を起こすときに種火を大きくするために使ったりする木ですから、火は付きやすいですが、あっという間に火が大きくなって燃え尽きてしまいます。
それが、ずっと燃えた状態でいるというのは、普通はありえない状態なのです。
不思議に思って近づいてきたモーセに、神さまはその火の中から語りかけたわけです。

「モーセ、モーセ」と、神さまはモーセを呼びました。
「はい、ここにおります」モーセはそう答えます。

神さまは、僕たちに呼びかける方です。
自分は関係ないって思っていませんか?
神さまは、あなたのことも呼びます。
もしかしたら、今この時、呼びかけてるかもしれません。
大切なのは、僕たちがいつでも、どんな時でも「はい、ここにおります」と答えることです。
神さまは、僕たちに使命を与え、僕たちは神さまに仕えて行動するのです。

神さまが与えた使命

神さまがモーセに与えた使命は、エジプトのファラオの元に行って、奴隷となっているイスラエルを解放することです。

出エジプト 3:9 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」

言うのは簡単ですが、イスラエルの人口は200万から300万人とも言われます。
今や、エジプトにとっては欠かすことのできない労働力。
ファラオがそれを手放すはずがありません。

しかも、イスラエルの解放は、かつてモーセが夢見たことであり、しかし挫折したことでもありました。
彼らは自分の身の安全を求めてはいても、エジプトから解放されることなど求めてはいないのではないか?
もう放っておいたらいいじゃないかという思いも、彼の中にはあったのではないでしょうか。

出エジプト 3:11 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」

「イスラエルの解放など、そんなことは私にはできません。」
それは、モーセの正直な気持ちだったことでしょう。
でも神さまは、モーセを力づけるように、こう言いました。

出エジプト 3:12 神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」

『わたしはあなたとともにいる。』
神さまは、僕たちにもそう語りかけています。

僕たちが自分の力で誰かを説得したり、誰かをクリスチャンにしようとしてもうまくいきません。
以前のモーセのように、むしろ煙たがられて挫折してしまうでしょう。
しかし、神さまが共にいてくださり、神さまの力によって福音を伝えるなら、それは必ず実を結んでいくのです。
『遣わす神』はただ単に僕たちを遣わすだけでなく、『僕たちと共にいてくださる神』でもあるのです。

「わたしはある」

世界には、たくさんの神々があり、さまざまな信仰があります。
特に、これから赴くのはたくさんの神々を信仰しているエジプトです。
「神だ神だというが、それはどの神のことだ」と言われても不思議はありません。
エジプトで育ったモーセの中では、そういう常識が根付いていたのかもしれませんね。

そこでモーセは、「あなたの名前を聞かれたら、何と言えばよいのでしょうか?」と尋ねました。
神さまはこのように言います。

出エジプト 3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。

英語で言うなら「I am」というのが、このときの神さまの答えです。
「わたしはある」あるいは、「わたしはいる」という言葉ですが、どう考えても名前ではありませんね(笑)。

この「わたしはある」という言葉は、過去形にも現在形にも未来形にも訳すことができる言葉です。
つまり、永遠の昔から存在し、今も存在し、永遠の未来まで存在し続ける方。
それと同時に、何か他の存在やものによって存在させられているのではなく、唯一絶対的に存在し、他のものを存在させているのが、この神さまという存在だということを表しているのです。

新約聖書の中で、イエスさまが「わたしは○○です」と言っているのを、私たちはたくさん見ます。
「わたしはいのちのパンです」「わたしは生ける水です」
他にもいろんな表現が出てきますが、これはこの時の神さまの名前を意識した発言です。
イエスさまは、「わたしはある」方のカタチだからです。

そしてもうひとつ、神さまは、イスラエルの人々にとって判りやすい名前を名乗りました。

出エジプト 3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

イスラエルの人々は、数百年の間、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という名を覚えていました。
そしてそれは、長い間見失っていた、彼らの神の名だったのです。