出エジプト記12章 最後の災い

目次

新しい暦

10番目の災いは、他の9つとは明らかに雰囲気が違いました。
それは、イスラエルの全ての人々に感じることができたでしょう。
これまでの奇跡は、全てモーセとアロンがそれぞれの場所で何かをすることによって起こってきましたが、今回はイスラエルのすべての人々がそこに参加していました。

まず神さまが命じたのは、新しい暦をここから始めるということでした。

出エジプト 12:1 【主】はエジプトの地でモーセとアロンに言われた。
12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。

それまでの暦では、一年は今で言う9月から10月くらいから始まっていました。
新しい暦はこの過ぎ越しから始まりますから、3月から4月くらいを第一の月とするということですね。

これは、この日からイスラエルの新しい一日が始まるということを意味していました。
創世記の時代、イスラエルは民族ではなく、個人であったり家族でしかありませんでした。
その後子孫がどんどん増えていきながらも、イスラエルはひとつの国を形成するどころか、奴隷としてエジプトに仕える一族となってしまいました。
今、このとき、イスラエルはひとつの民族としての第一歩を踏み出そうとしていたのです。
ここから、イスラエルが新たないのちを得て生まれることを意味していたのです。

流された小羊の血

神さまは、イスラエルの家族ごとに、雄で傷のない、1歳の羊かヤギを用意させました。
そしてその子羊を殺し、その血を自分たちの家の扉の門柱とかもいに塗るように命じたのです。

この晩、主の霊がエジプト中を巡り、その家庭で最初に生まれた子ども、家畜の命を取り去ってしまいました。
それはまるで、エジプト人たちがイスラエル人の男の子を全て殺してきた過去を清算するかのような出来事でした。
あるいは、神様の初子であるイスラエルを開放しないパロに向けられた、裁きででもあるような出来事でした。

しかし、イスラエルの人々の家からは、ひとりも死ぬことがありませんでした。
主の霊は門柱とかもいに塗られた小羊の血を見て、裁きはその家には下されず、彼らの家を過ぎ越されたのです。

イスラエル民族がエジプトから解放され脱出することができたこの時の出来事を、イスラエルの人々は“過ぎ越し”と呼んで特別な日としてお祭りしています。
イエス様が弟子たちとともに過ごした最後の晩餐は、この過ぎ越しの祭りのときでしたし、ユダヤ人は今でもこの過越し祭を大切に守っています。

それにしても、なぜイスラエルの人々はこの時、小羊の血を門柱とかもいにぬらなければならなかったのでしょうか。
そして、どうして彼らはそれを祭りとして後世に残していく必要があったのでしょうか。
それは、この過越しを通してイスラエルが開放されたという喜びもありましたが、過越しそれ自体より、そこに象徴されている本当の意味に重要なことが示されていたからです。

イスラエルの人々が門柱とかもいに塗った小羊の血。
この血が象徴しているのは、後の時代に流されることになった、イエスさまが十字架で流した血です。
罪のあるすべての人が裁きを受ける終わりのときに、イエスさまを信じ、罪の贖いのために流された血を受け取ることによって、神様の裁きは私たちを過ぎ越すのです。
この時に捧げられる小羊が、傷のない、雄の羊でなければならなかったのは、その羊がイエスさまを象徴しているからです。

イスラエルの人々は、アブラハムの子孫だからという理由によって裁きを免れたのではありません。
もし彼らがモーセの言うとおりにしないで、小羊の血を塗らなかったとしたら、その家にはやはり裁きが下されたでしょう。
その一方で、もしエジプト人たちがイスラエルの人々と同じように、小羊の血を門柱とかもいに塗るなら、その家庭も裁きを受けることはなかったでしょう。
神の裁きから人を守ったのは、小羊の血だったということが、ここでは明確に語られています。

誰も、割礼を受けているからとか、信仰者として全力を尽くしたからとか、あるいは正しい行いをした良い人だったからとかいう理由で救われたのではありませんでした。
僕たち人間の功績というものは、人間同士の中で評価の対象とはなっても、神さまの正しさの前に十分な善ではありえません。
しかし、僕たちの魂の扉の門柱とかもいに塗られた神の小羊イエスさまの血によって、神の裁きは僕たちを過ぎ越します。

この時に流された小羊の血と、過越しの出来事は、その真実をイスラエルの人々と、僕たちに教えてくれているのです。

開放のとき

エジプト中の人々が、わが子を失った悲しみのためにすすり泣く中で、イスラエルは430年間を過ごしたこのエジプトを後にして旅立ちます。

奴隷としての生き方を強いられてきたイスラエルの人々にとって、開放は自由になれると同時に不安や恐れももたらしたことでしょう。

僕たちが歩み始めた新しい生き方も、今までの罪に支配された生き方ではなく、愛の支配の中にある生き方です。
未だ罪の支配を受けているこの世の中で、その様な生き方をすることは不安や恐れも感じるでしょう。
しかし、この道のりは僕たちが独りで行く道ではありません。

たくさんの仲間とともに歩む道でもありますし、何よりも神さまが共にいてくださいます。
僕たちは、その様な神さまの導きに期待し、信頼して、この道を歩んで行こうではありませんか。