出エジプト記13章 過ぎ越し
過ぎ越し
12章で起こった出来事を覚えるために、約束の地に着いた後行うようにと命じられたのが、この13章に記されている過ぎ越しの祭りです。
アビブの月というのは、後の時代(バビロン捕囚後)にはニサンの月と呼ばれるようになります。
太陰太陽暦という、私たちが使っているグレゴリオ暦とは違う暦なので、毎年過ぎ越しを祝う日は変わることになります。
過ぎ越し祭を行うのはアビブ(ニサン)の月15日から7日間となり、グレゴリオ暦では3月末から4月です。
この7日間、イスラエル人は種無しパンを食べなければなりません。
種無しパンと言うのは、つまりイーストや酵母など生地を膨らませる菌が入っていないパンです。
まぁ、せんべいみたいなものですね。
これは、イスラエルの人々がエジプトを出る際、生地を膨らませる時間もないまま旅立たなければならなかったことを覚えるため。
そして、人の力ではなく、神さまの力によってすべてのことが起こったことを覚えるためでした。(出エジプト13:8)
過ぎ越しを祝うことは、そこに象徴されている救い主を覚えて、後世に伝えるためです。
こういうキリストを表す伏線が、旧約聖書にはたくさん出てきます。
初子の贖(あがな)い
次に、かもいに羊の血を塗った家を主が過ぎ越され、初子が殺されなかったことを覚えるため、初めての子が生まれたときには、あがなうためのいけにえを捧げることが命じられています。
罪の「つぐない」というと、自分自身が犠牲を払わなければならない感じですが、「あがない」はいけにえなど他の犠牲によってその罪を支払うことを意味しています。
僕たちは、自分の罪を永遠の裁きによって「つぐなわ」なければならなかったのですが、イエスさまが十字架にかかって死んだことによって、その罪が「あがなわれた」のです。
マンガやアニメでは、あまり意味が分からないまま、カッコイイから「あがなう」という言葉を使っているような気がしますね(笑)。
神さまの導き
神さまは、エジプトを脱出したイスラエルの人々を、近道であるペリシテ人の地へは導かれなかったと聖書には書かれています。
出エジプト 13:17 さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」
13:18 それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。
これはつまり、今のイスラエルではかなわないペリシテ人とは合わせないようにしてくださったということです。
逆に言えば、イスラエルの人々が敵と戦わなければならない時は、神さまがちゃんと選んだ相手だということでもありますね。
神さまは、昼間は雲の柱、夜は火の柱によって導きました。
自然現象としてもこういうものがないわけではありませんが、やはり神さまの臨在が目に見える形で表れていたとみることが自然のように思います。
さて、昼も夜も進めるように、雲の柱、火の柱が使われたわけですが、実際には40年という長い期間をかけて導かれることになってしまいます。
イスラエルの人々の背きの罪のためですね。
雲の柱、火の柱が出ることは少なく、どこかの地域に長く滞在することが多かったのでしょうね。