律法を考えてみよう(1)(過去ブログより)

十戒を始めとして、神様がイスラエルの人々に伝えたルールの事を、聖書の中では“律法”と呼ぶ。 
人が作った法律とは違う、律法というものが聖書には書かれているんだ。 

たくさんある律法を、10にまとめたものが十戒なんだね。 
この十戒を読んで、みんなはどんなふうに感じたのかな? 

自分の人生を振り返ってみた時、いくつの戒めに引っかかっただろう? 

僕はね・・・、 

全部だよ。(^-^) 

でも律法は、僕たちが守れていない事に絶望したり、いかにダメな人間かということにがっかりするためのものじゃない。 
申命記という律法書の中にはこのように書かれているんだよ。

申命記 5:33 あなたがたの神、【主】が命じられた道をあくまで歩み続けなければならない。あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有するその地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

律法は、僕たちを幸せにするためのものだと言われているんだ。 
もし世界中の人間が自然な形で律法を守る事ができたとしたら、それはすごく平和で幸せな世界だと思わない? 

すべての人が一つの神を崇め、 
すべての人が自分勝手なイメージでなく真の神様を見、 
すべての人が神様を軽んじず、 
すべての人が休むべき時に休み、あるいは神様の力によって生き、 
すべての人が両親を敬う事ができ、 
すべての人が他人を傷つけず、 
すべての人がお互いを誠実に愛し、 
すべての人が不当に他の人のものを手に入れようとせず、 
すべての人が正直で、 
すべての人が他人と比較しなくてもいい世界。 

それは天国のような場所だなぁと僕には思える。 
逆に言えば、僕たちの生きる世界は、神様の作った世界からどれ程かけ離れてしまった事だろう。 

そもそも、律法が僕たち人間に与えられたのは、守れる事が当たり前だったり、守ることができる人が優越感を感じられるような事のためじゃない。 
むしろ、完全に守る事など誰にも不可能な事が書かれているのが律法だったりするんだ。 (ガラテヤ3:11) 

神様が創造した本来の僕たちは、この様に生きるはずだったんだろう。 
でも、罪に汚された僕たちは、誰一人としてこの律法を全うする事ができない。 
言ってみれば、僕たちは律法を通して自分のあるべき姿を知ると共に、罪の醜さを知ることができるんだ。 

僕たちの中には罪がある。 
そして、その罪が僕たちを不幸にしているんだってこと。 

だからこそ、僕達には罪の赦しが必要なんだ。 
だからこそイエス様は十字架にかかり、僕達の罪の結果を、僕達の代わりに支払って下さった。
そして罪の結果である死を打ち破り、勝利し、やがて天の御国に帰って行って聖霊を送ってくださった。 

律法の目的の一つは、僕達が自分自身の罪深さを知るためだ。

ローマ 3:20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

そして、自分は罪びとである事を知って、僕達を悔い改めに導くためのものなんだ。 

だから、自分が十戒を破っている事に気がついて落ち込まないで欲しい。 
僕達には、その罪を償ってあがなう、イエス様の愛が注がれているのだから・・・。 

まとめ: 僕たちに律法をまもりきる事はできない