律法を考えてみよう(2)(過去ブログより)

インディー・ジョーンズという映画があったんだけど、覚えてるかなぁ? 

その記念すべき大一作目のサブタイトルは、『失われた聖櫃(アーク)』。 
この聖櫃に何が入っていたか、みんなは知っているだろうか? 

この箱は、あかしの箱とか、契約の箱と言う名前で聖書の中に描かれている。 
そしてこの箱には以下のものが入っていた。 
アロンの杖、マナを入れた壷、そして、十戒だ。 

映画のラストシーン、ナチスの兵が聖櫃を開けると、そこにいた人々は残らず死んでしまう。 
目をと閉じていたジョーンズ博士たちを除いて。 

ナチスは聖櫃を兵器として使おうとしたわけだけど、その殺傷力は大変なものだったわけだ。 
事実、聖書に出てくる聖櫃は、不用意に取り扱ったものを次から次へと殺してしまう。 
しまいには、本当に兵器として利用しようとしたのか、戦場に持ちだした人まで出てきた始末だ。 

それにしてもどうして、神様が作らせた聖なるものによって、人々が殺されてしまうのだろうか。 
実は、それこそが“律法”の力なんだ。

ガラテヤ 3:10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。

(注:ここで引用されている律法は、直接的には十戒を指しているわけではないけどね。) 

IIコリント 3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

正確には、僕たちに死を与えているのは罪であり、その罪が律法によって明らかにされるということなんだろうけどね。(Iコリント15:56他) 
だから神様は、律法の代表である十戒を聖櫃の中に入れさせたんだ。 

ところで、聖櫃のふたには名前がつけられている。 
そのふたの名前を、『贖いのふた』(出エジプト25:17) というんだ。 

贖いと言うのは、借金の返済を代わりにしてくれると言う意味。 
キリストが、十字架で僕達の罪を“贖った”というのと同じ言葉だね。 
もちろんそれは偶然じゃない。 
神様はこれを通して、大切な事をイスラエルの人々に伝えようとしていたんだ。 

1.罪の報酬は死である。罪があるので、僕達は誰も、永遠の死を免れる事ができない。 

2.しかし、何が罪であるかわからない僕達には、そのような運命が待っている事を理解できない。 

3.だから、律法によって僕達は自分の中にある罪を知り、自分が罪深い存在なんだと言う事を理解する。 

4.そしてその罪が、神様によって贖われなければならない事を、聖櫃の存在によって知ることができる。

5.今の時代を生きる僕達は、型としての贖いではなくて、本当の贖い、イエス様の十字架による贖いを受ける必要がある事に、気がつかなければならない。 

契約の箱(聖櫃)を不用意に扱った人達が死んでしまったように、僕たちは律法というものを注意深く取り扱う必要がある。 

律法というものは、必ず贖いによってふたをされていなければならないものなんだ。 

まとめ: 律法を振りかざす事をやめよう