律法を考えてみよう(3)(過去ブログより)
僕たちは罪人なので、神様が定めたルールである律法を、完全に守る事ができないというのが前回までのお話しだ。
それを、自分の努力によってできる戒律であると勘違いしてしまうと、色々と困った事が起り始めてくる。
守れるはずの事だと思っていても、絶対に完全に守る事なんてできない事なので、まじめな人であればあるほど、自分の罪深さに苛まれて辛い思いをするようになる。
僕たちはやがて、絶望的な気持ちになり、自分のダメさ加減に全てが嫌になってしまうだろう。
逆に自分は律法が守れているように思える時には、律法をまもっていない人達を裁き、批判し、自分は奢り高ぶるようになってしまう。
このように、律法を中心とした価値観は、まもる事ができてもできなくても、どちらにしてもいい結果を生む事がないんだ。
こういう、律法をまもる事が一番大切だという考え方を、律法主義と言ったりする。
新約聖書に出てくるパリサイ派の人達や、律法学者と呼ばれる人達はその考え方に捕われていた人達だったんだよ。
イエス様が、彼らに対してどれほど怒りを持っていたかという事が、聖書を読んでいるとよくわかる。
でも、律法主義はイスラエルの人達だけの問題ではないんだ。
ルカ 12:1 そうしているうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに話し始められた。「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。
僕達クリスチャンも、律法から解放されているはずなのに、すぐにこの律法主義の考え方に陥ってしまう。
礼拝に毎週出席する事。
収入の十分の一をちゃんと献金している事。
ちゃんとしたモラルを持って、
クリスチャンらしい言葉使いをし、
クリスチャンらしい服装を着て、
クリスチャンらしい価値観で物事を考える事。
こういう事が僕達の律法になってしまい、自分がそのようであるかどうかという事に一喜一憂したり、この枠から外れている人達を批判したりする。
それは、まるっきり律法主義と同じ原理で起っている状態だ。
律法主義にはまってしまうと、僕たちは表面的な事ばかりを気にするようになる。
表面的な事なら、僕たちはすぐに変える事ができるから、僕たちは表面を変える事ばかりに夢中になってしまいやすい。
そうしていつの間にか、中身はそのまま、体裁だけを整えていくようになってしまうんだ。
しかし、外側を整えて強化すればするほどに、僕達の内側はどんどん空っぽになって行く。
それが律法主義の恐ろしいところなんだ。
僕たちは体裁だけを整えて外側を変える事ではなく、イエス様に内側から変えてもらわなければならない。
でも、表面的な変化と違い、内側から変わって行く事には時間が必要だ。
頑なな僕たちは、時には膨大な時間を必要とする。
時には、何も変わらないように思える時だってあるだろう。
でも、長い間表面的には何も変わらないように思えるような時でも、僕たちはちゃんと変化しているはずだ。
木が大きくなるためには、まず根が大きくならなかなければならないように、僕達の成長が表面的に見えるようになってくるまでには時間がかかる。
十戒を通して、僕たちは自分の中に罪があることがわかればいい。
次に必要なのは、御言葉に触れ、祈り、神様の御許に近づいていく事。
そして何より、神様の愛をいっぱいに受け取り続ける事だ。
根が伸び、神様の愛という栄養をたっぷり吸収できるようになれば、自然に変化は起り、やがて御霊の実も結んでいくはずだ。
そうやって僕たちは、少しずつイエス様に似た者に近づいて行くんだよ。
まとめ: 律法主義は僕達の傍に潜んでいる