律法を考えてみよう(4)(過去ブログより)
僕たちは、罪人なので、律法を完全に守る事ができない。
それでは、律法とは絵に描いた餅なのだろうか?
結局のところ僕たちは、神様の祝福を受けることができるような、幸せな生き方をする事ができないという事なのだろうか?
いや、そうじゃない。
「どうせできないんだし。」と開き直ってしまったら、僕たちは罪の道へと直行するだけの事だ。
かと言って、努力でできるようなことでもない・・・。
そこで僕たちは、そもそも罪とは何だったのかという事を思い出してみよう。
罪とは、僕達が神様に背をそむけ、自分が神となる事だったはずだ。
つまり、僕達が罪から離れるためには、僕たちはすべての罪の原因である、自分を神様とし、真の神様に背を向けている状態から回復すればいいんだ。
僕たちは罪に背を向けて、神様のいる方に歩み始めればいい。
僕たちが神様に近づき、神様の愛に触れれば触れるほど、僕たちは罪から離れ、心が律法に近づいていくのがわかるはずだよ。
だからイエス様はこう言ったんだ。
マタイ 22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
22:38 これが、重要な第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
十戒は、『~してはならない』という厳しい言葉で禁止されていた。
実はね、この言葉、原文から確かにこの様にも訳す事ができるんだ。
直訳すると、むしろ『~しないだろう』という未来形の言葉として書かれているらしい。
つまり、『あなたは~しないはずだ』という言葉で訳す事ができるんだよ。
あなたは、わたしのほかに、他の神々など必要としないはずだ。
あなたは、自分のために偶像など作らないだろう。
あなたは、わたしを軽んじることがないだろう。
あなたは、休むべき時に休み、あるいはわたしの力によって生きることができる。
あなたは、あなたの両親を愛し、赦し、敬うようになるだろう。
あなたは、決して他人を傷つけないはずだ。
あなたは、お互いを誠実に愛し、 裏切る事はないだろう。
あなたは、不当に他の人のものを手に入れようとする必要もない。
あなたは、正直となり、
あなたは、他人と比較する必要がなくなるはずだよ。
『あなたは罪から離れ、やがて律法のままに生きることができるようになるだろう。
なぜなら、神であるわたしがあなたと共にいて、あなたを愛しているからだよ。』
そういうメッセージが十戒の中には含まれているんじゃないのかな。
だからこそ、僕たちは自分がおかしている罪を見つめるのではなく、神様に目を向けていよう。
「あんな事をしてしまった、こんな事をしてしまった。」という反省も大切ではあるけれど、
それだけでは罪の事ばかりを考える事になってしまう。
まずは、赦されているという恵みを受け止め、神様を見上げよう。
僕達を罪から解放する力は、僕達が罪に抗うことにあるのではなく、神様の愛と、赦しのなかにこそあるのだから!
1ヨハネ 1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
まとめ: イエス様に近づくほど、僕たちは罪から離れる事ができる