出エジプト記34章 輝く顔

目次

もう一度与えられた十戒

イスラエルが神さまに背き、金の牛の偶像を作った時、それを見たモーセは怒って十戒が刻まれた石の板を砕いてしまいました。
しかし神さまは、石の板を用意すればもう一度それを渡そうと言ってくださいました。

2枚の石の板を持って立つモーセに、神さまはこのように告げてご自身の存在を表します。

出エジプト 34:6 【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、
34:7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

それを聞いたモーセは地にひれ伏し、もう一度神さまの前に申し出ます。

出エジプト 34:9 彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」

そして神さまは、もう一度イスラエルの民と結んだ契約を思い出し、結びなおしてくださいます。

神さまとの契約

出エジプト 34:10 主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、【主】のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。

簡単に言うと、神さまに従うなら神さまはともにいて下さり、守ってくださるということですね。
この後、いくつかの項目に関して、守るべきことを神さまは教えてくださいます。

12-17節までは、偶像崇拝をしないこと。
他の国の神を信仰したり、他の国の民と契約を結んだり、神さまを形にしようとしないようにと命じられます。
この時代は、宗教的な価値観が人生観そのものを動かしていましたから、どの神に従うかということが大きな意味を持っていました。
現代の私たちは、他宗教がどうこうということではなく、政治や経済や文化など、あらゆるものが偶像になりえます。
神さま以外のものを基準にして価値を見出そうとするなら、それはそれ自体が偶像崇拝なのだと思います。

いつでも、神さまに聞き、神さまに従うということが大切ですよね。

18-27節では、祭りについて教えています。
これもまた、宗教が価値観の中心となっていたこの時代の文化を背景にして語られている言葉です。
祭りを通して知恵や知識、価値というものが引き継がれていきました。
現代では、むしろ祭りのようなものは形骸化してしまって、意味を引き継ぐことが難しくなっているように思います。

輝きを放つ

神さまの元から帰ってきたモーセの顔は、光り輝いていました。
それを見た人々は、その輝きを見て恐れを抱きます。
その輝きは、神さまの栄光の輝きだったからです。

僕たちも、神さまと共に過ごし、神さまの栄光を反映するとき、同じように輝きを放ちます。
それは、直接目で捉えられる光ではないかもしれませんが、多くの人たちがその光を感じ取ります。
ある人は、その輝きの故に僕たちを慕い求め、ある人はその輝きの故に憎み、迫害します。

モーセは、人々と話し終えると、顔に大井を掛けるようになりました。
そしてその後、神さまと語る時だけ覆いを外し、それ以外の時には覆いをかけるようになったと書かれています。(出エジプト記 34:33-35)
これは、なぜでしょうか?

パウロがこのことについて書いています。

2コリント 3:13 モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。

モーセは、神さまの栄光の輝きが時間とともに消えてしまうのを、イスラエルの人々に見られたくなかったのです。
神さまとの接触が制限されていたこの時代では、光が消えてしまうのもある程度仕方がないことだと思います。
でも、覆いをかけるというモーセの行為の裏側には、彼自身のプライドもあったのだと思います。

僕たちは、いつでも神さまとの時間を過ごすことができます。
そして、そのたびに神さまの輝きを受けることができるのです。
その喜びを味わいつつ、いつでも神さまと共に過ごすものでありたいですね。