目次

愛するとは?

―考えてみましょうー
あなたには愛している人、あるいは愛していた人はいますか? それは本当の愛だと思いますか?

Ⅰヨハネ 4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

と聖書は教えています。

愛が聖書の、そして福音のキーワードです。
神様が私たちに求めている事は、次の律法に集約されています。

ルカ 10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神様を愛すること。
そして、自分自身を愛するように、隣人を愛するということです。
このセッションでは、神への愛と人への愛というふたつの愛について考えていきましょう。

 

神様を愛する

私たちは、神様への愛をどの様に表現する事ができるでしょう?
聖書の中では、神様への愛が礼拝という形で表現されています。
そこで、礼拝とは何かを考えながら、神様への愛をどの様に表現すればいいのかを考えましょう。

―考えてみましょうー
礼拝とはどんなものだと思いますか? 自分の言葉で表現してみましょう。

① 捧げものを捧げる。

創世記4:3~4を読みましょう。

創世記 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、
4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

古(いにしえ)より、礼拝の一番の方法は捧げものを捧げるということでした。
カインとアベルに始まり、アブラハムも、モーセも、ダビデも、ソロモンも、みんな捧げものを捧げる事によって礼拝していたことがわかります。

自分が大切にしているものを神様に捧げる事によって、神様への愛を表現したのです。
礼拝の本質は捧げるということです。

カインはただ自分が育てた作物を捧げただけでしたが、アベルは最高の初子を捧げました。
神様は、アベルの捧げものを選びました。
この話を聞いて、「自分に捧げる事ができるちっぽけなものが神様に受け入れられるだろうか?」と不安になる方もいらっしゃるかもしれません。
神様にとって大切なのは、その捧げものが何かという事よりも、どのような思いで捧げるかと言う事です。

子どもが描いた絵は、ほとんどの人には単なるへたくそな絵でしかないようであっても、その子の両親にとっては宝物です。
私たちの天のお父様は、私たちが心から捧げるなら、どんな捧げものも喜んで下さいます。
神様が愛しているのは、捧げものではなく、捧げる私達なのだという事を忘れないでいて下さい。

捧げものは、モーセ以降には“いけにえを捧げる”という律法によって形を明確がなっていきます。
これは、やがて神様から救い主が送られた時、いけにえとして自らの命を犠牲にしてくださることを表していました。
これによってわかるのは、神様が“ひとり子イエス”という最高の捧げものを、私たちのために贈って下さったという事です。

② 礼拝式

礼拝と言うと、私たちがまず思いますのは、日曜日に教会で行われる礼拝かもしれません。
これは、正確には“礼拝”ではなく、“礼拝式”と言って、“礼拝”を式として執り行う形式です。
礼拝が今のような形式になったのは、キリスト教がローマ帝国で国教と認められるようになってからだと思われます。

キリスト教の礼拝式は、ユダヤ人たちがバビロン帝国に捕囚されていたころ、シナゴーグという集会所で集まっていた事が見本になっています。
捕囚されていた時代は、いけにえを捧げる事が禁じられていたので、集会所に集まって聖書について学んでいたのです。
私たちの礼拝式には、以下のものが含まれています。

1. 賛美

歌や踊りなどを通して、神様をほめたたえます。賛美をする事は、単に歌を歌う事ではなく、心から神様を愛し、ほめたたえる事なのです。
賛美が歌などで表現されるのは、それが最も感情を乗せやすい方法だからです。
心を込めて神様を賛美しましょう。

 2. 祈り

ともに祈り、互いに祈り合う事が、同じ場所、同じ時間に集まる事のだいご味のひとつです。
2、3人が集まって祈るところにも主はおられると約束されているなら、もっと多くの人々がともに祈る時、どんな事が起こる事でしょうか。
集まる人々が心をひとつにして祈る時、そこには団結心も生まれます。

 3. 献金

礼拝の本質が捧げるという事なら、献金はまさに私たちがするいけにえです。
私たちが家畜ではなくお金を捧げるのは、お金が生活に関わり、一番大切なものだからです。

聖書の中では、人々が収入の十分の一を捧げたという事が記されていますが、私たちも決まった金額を捧げる事をお勧めします。
捧げる者を祝福する事を、神様は約束しています。(マラキ3:10)

 4. メッセージ(説教)

“VIII.御言葉とは?”の回で、神様の言葉は霊的な食事だという話をしました。
礼拝のメッセージで大勢の人々と御言葉に耳を傾けるのは、霊的な団欒を楽しむことです。
ひとりでも食事をする事は出来ますが、他の人たちと食べると、よりおいしくいただけるものです。
兄弟姉妹とともに、霊的な団欒を楽しみましょう。

 5. フェローシップ(交わり)

教会で人々と話したりして交流を深める事も、礼拝の大切な要素のひとつです。
世の中にあるような冷たい関係ではなく、教会ではあたたかい愛の関係を築くことが大切です。
互いに赦し合い、互いに仕え合い、互いに教え合い、互いに愛し合う関係を築きましょう。

③ 自分自身を捧げる

ローマ12:1を読みましょう。

ローマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

礼拝とは最終的に、自分自身を神様に捧げる事です。
キリストのからだ(教会)となって、神様のために人生を使い、地上でさまざまな働きをします。
私たちがより効果的に自分を捧げる事ができるようになるために、礼拝式はあるのです。

この事については、次回の学び“X. 使命とは?”で、詳しく学んでいきます。

人を愛する

わたし達は、神様を愛するだけでなく、互いに愛し合う事が必要です。
イエス様は、わたし達にこのように命じています。

ヨハネ 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

―考えてみましょうー
イエス様は、どのように私たちを愛したと思いますか?
必要であれば聖書を参考にしながら、自分の言葉で表現してみましょう。

皆さんは、イエス様の愛のどんな一面に気づいたでしょうか?
イエス様は、弱い私たちに寄り添い、ありのままの私たちを受け入れ、赦し、慰め、励まし、力を与えました。
イエス様はそのような愛で、今も私たちを愛してくださり、私たちがそんな風に互いに愛し合う事を求めているのです。

それでは、イエス様が教えてくれた愛とはどのようなものか、使徒パウロが手紙の中の言葉から学んでいきましょう。

Iコリント 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。

① 寛容になる

誰かが間違いを犯したとき、それを責めるのではなく相手を赦し、その人の成長を待つ心が寛容です。
わたし達はつい、正しい事を最優先にしてしまいがちですが、その正しさは善悪の知識の木を食べた結果得た、自分で決めた善でしかありません。
正しさは神様に任せて、わたし達は相手の事を理解する努力をし、寛容になりましょう。

② 親切にする

愛する事は、単に優しいだけではなく親切です。
優しさはどちらかと言うと受け身の感じがしますが、親切は言わば積極的な優しさです。
人から嫌われないためにする事ではなく、相手を思う心から来る真心。
わたし達が誰かにしてもらいたい事を他人のためにする事が、親切です。

③ ねたまず自慢せず、高慢にならない

ねたみや高ぶりの土台になっているのは、比較の価値観です。
隣の人と自分を比較して、一喜一憂する時、わたし達はねたんだり、自慢するようになります。
私たちが相手を愛する時、わたし達は人をねたんだり、自慢したり、高慢にならなくなっていきます。
わたし達は、自分の益となること以上に、愛する人の喜ぶことを願うようになるからです。

④ 礼儀を守り、見返りを求めない

「親しき中にも礼儀あり」という言葉があります。
愛するという事は、ぶしつけな態度をとっていいという事ではありません。
愛する相手だからこそ、「ありがとう」という気持ちを忘れず、感謝を表現することも大切な事です。

しかし、私たちはそれを、相手には要求しないのです。
「これだけの事をしてやったのに、感謝の言葉もないのか。」とか、「自分にもこれくらいの事はしてくれていいはずだ。」と考えるなら、それは愛ではなく、何かを得るためにやっている事でしかありません。
全てを捧げるつもりでやりましょう。

⑤ らず、を思わない

怒る事自体は、誰にでもある事です。
それが必ずしも悪いわけではなく、イエス様ご自身も何度も怒りました。
ここで言われているのは、怒りに我を忘れて行動しないという事です。
冷静になって、相手を赦す必要な時もあれば、諭すべき時もあるでしょう。
しかし、怒りの感情に任せて口を開くなら、それは相手を傷つける言葉にしかならないのです。

また、「悪を思わない。」という事は、つまり相手の良い部分を見つけるという事です。
相手の弱い部分、悪い部分に目を留めるのではなく、長所に注目しましょう。

⑥ 不正ではなく、真理であることを喜ぶ

愛するなら、相手が不正をしてでも成功をする事ではなく、成功しなくても真実である事を喜びましょう。
不正から来る成功は、やがて破たんしますが、真理を貫いていれば必ず素晴らしい道が開けるからです。

誰かが罪の中にある時、このようにして諭してあげなさいとイエス様は教えています。

マタイ 18:15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

相手が聞こうとしないなら、その人を異邦人か取税人のように扱いなさいとイエス様は言います。
この言葉をもって、教会は従わない人々を破門しきましたが、私たちはイエス様が異邦人や取税人とどのように接してきたかという事から学ぶべきです。
私たちはその人を、信仰を持っていない人のように扱うべきだという事なのです。

⑦ 相手を信じ期待し耐え忍ぶ

私たちは、神様が最高の者として創造した、この地上に唯一の価値を持った存在です。
確かに罪人でもあり、問題もたくさんありますが、私たちの中には、私たちが本来あるべき最高の私達が隠されています。

人と接する時、その人を信じ、期待し、最高の自分を見出す事ができる時を待ち望む心を持ちましょう。
多くの人は、誰からもそのように扱われたことがありません。
しかし、そのように一人の人として、尊敬を持って扱われる必要があるのです。

⑧ 愛は絶える事がない

多くの人は、“愛”とは相手を想う感情の事だと思っています。
しかし、感情は状況によって変わります。どんなに熱い“愛の感情”も、やがては冷め、憎しみに変わってしまう事もあります。

本当の愛は、決して耐える事がありません。
好きではなくなり、感情的には愛せなくなった時、それでも相手を思い、寛容になり、親切になり、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀を守り、見返りを求めず、怒りに我を忘れず、相手の最善を望み、真実を喜び、信じ、期待し、待ち望むこと、それが本当の愛なのです。

傾聴する

傾聴とは、注意深く相手の話に耳を傾ける事です。
私たちはつい、自分が話すことに夢中になってしまい、相手の言葉に心から耳を傾けるという事を忘れてしまいがちです。
相手の言葉をそのまま受け取り、気持ちを受け止める事によって、相手は受け入れられている、愛されていると感じるのです。

パウロは言います。

ローマ 12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

このように相手に共感するためには、相手の言葉に心から耳を傾ける必要があります。

―愛を実践してみましょうー
ふたり一組になって、互いに最近楽しかったことや、嬉しかったこと、あるいは悲しかった事について話しましょう。
聞く側は、以下の事に気を付けて傾聴してください。

  1. 内容をしっかり聞く。(言葉、声の調子、表情、しぐさ、雰囲気を感じ取る)
  2. 自分の似たような体験について話したり、アドバイスをしようとしない。
  3. 話の情報だけでなく、相手の気持ちを読み取る。
  4. 相手のペースに合わせて、呼吸のペースを合わせる。(ペーシング)
  5. うなずいたり、「それは大変でしたね」「楽しそうだね」と相づちを打つ。
  6. 楽しい事のためには一緒に笑い、悲しい事はその悲しみを共有しましょう。

 傾聴してみて、どのように感じましたか?
どれくらいできていると感じ、相手はどれくらい聞いてもらっている喜びを感じたでしょうか?

愛の人になる

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くし神様を愛するという事。
そして、自分自身のように隣人を愛するという事は、決して簡単な事ではありません。
それどころか、Iコリントの愛についての言葉を読むほどに思わされるのは、「愛する事は難しい」という現実ではないでしょうか?

それでも何とか愛さなければと、私たちは半ばクリスチャンとしての義務感から愛そうとします。
その結果、自己否定的になり、疲れ果てて燃え尽きてしまう人も実は少なくはないのです。
利己的で、自己中心的な私たち罪人は、愛する事の大切さがわかっていても、実行する事が難しいのです。
それでは、私たちはどうすればいいのでしょうか?

神様を愛し、人を愛する事は確かに大切な事ですが、それ以上に大切な事があります。
それは、「愛の人になる」という事です。
愛の人になるというのは、人を愛する事が私たちの自然の状態になるという事です。

私たちが、どれだけ頑張って表面的な部分で愛そうとしても、その愛はなかなか相手には伝わりませんし、その割にかなりの精神的なエネルギーを消費します。
私たちは、ただ表面的に誰かを愛するようにふるまうのではなく、「愛の人」へと変えられていく必要があるのです。
しかし、私たちは自己中心的なので、自分の意思だけで「愛の人」になれません。
では、どうすれば「愛の人」になる事ができるのでしょうか?

「愛の人」になるために必要なのは、「愛の人」と多くの時間を過ごすことです。
私たちは、大好きな人、そして多くの時間を共に過ごした人と似てくるからです。
では、身近にいる「愛の人」とは誰でしょう? それは、イエス様です。
犬や猫が飼い主と似ていくように、私たちはいつでも、どんな時でもイエス様とともに過ごしましょう。
祈りを通して、ディボーションを通して、私たちが主の素晴らしさを実感していくほどに、私たちは主に似た者へと変えられていくのです。

エペソ 4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。