ヨハネ4:1-26 サマリアの女性
サマリアの井戸での出会い(4:1-6)
イエスはユダヤを離れ、ガリラヤへ向かわれました。
その途中でサマリアを通られ、スカルという町の近くにあるヤコブの井戸へ来られます。
旅の疲れから、
「イエスは井戸の傍らに座っておられた。」
とあります。
時は昼の十二時頃でした。
普通ならユダヤ人の教師がサマリア人と関わることはほとんどありませんでした。
しかしイエスは、この女性との出会いを避けられませんでした。
主はすでに彼女を求めておられたのです。
生ける水の約束(4:7-15)
一人のサマリア人の女性が水を汲みに来ると、イエスは言われます。
「わたしに水を飲ませてください。」
女性は驚きます。
ユダヤ人とサマリア人は長年対立しており、通常なら会話さえ避けていたからです。
するとイエスは語られます。
「もしあなたが神の賜物を知り、『水を飲ませてください』と言っているのがだれであるか知っていたなら、あなたの方からその人に求めたでしょう。」
さらに、
「その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
と言われます。
女性は井戸の水のことだと思いましたが、イエスが語っておられたのは聖霊によって与えられる永遠のいのちでした。
主は言われます。
「わたしが与える水を飲む人は、決して渇くことがありません。」
人間の心の渇きは、この世のもので完全に満たされることはありません。
しかしキリストだけが永遠の満足を与えることがおできになるのです。
明らかにされる女性の人生(4:16-18)
イエスは突然、
「行って、あなたの夫を呼んで来なさい。」
と言われます。
女性が、
「私には夫がいません。」
と答えると、主は彼女の人生を言い当てられます。
「あなたには五人の夫があり、今一緒にいる人も夫ではありません。」
イエスは彼女を辱めるために語ったのではありません。
彼女の心の最も深い渇きと傷に触れられたのです。
人は愛や人間関係の中に満足を求めますが、それだけでは本当の渇きを癒すことはできません。
主は彼女を責めるのではなく、救いへ導こうとしておられました。
真の礼拝とは何か(4:19-24)
女性は話題を礼拝の問題へ移します。
「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたはエルサレムで礼拝しなければならないと言います。」
サマリア人はゲリジム山を礼拝の中心とし、ユダヤ人はエルサレム神殿を中心としていました。
しかしイエスは言われます。
「この山でもなく、エルサレムでもない場所で父を礼拝する時が来ます。」
さらに、
「真の礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ています。」
と語られます。
礼拝の本質は場所ではありません。
神の御霊によって、真理のうちに神へ向かうことなのです。
ここでもヨハネ2章の「新しい神殿」のテーマが発展しています。
神との交わりの中心は建物ではなく、キリストご自身となるのです。
「それを話しているこのわたしが、それです」(4:25-26)
女性は最後に言います。
「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。」
するとイエスは明確に答えられます。
「あなたと話しているこのわたしが、それです。」
これはヨハネ福音書の中で最も直接的なメシア宣言の一つです。
驚くべきことに、この宣言はエルサレムの宗教指導者でもなく、ユダヤ人の学者でもなく、サマリアの女性に対して語られました。
神の恵みは民族や身分の壁を越えて届けられるのです。
ヨハネ福音書における対照
3章のニコデモと、このサマリアの女性は鮮やかな対比をなしています。
- ニコデモは男性、女性は女性
- ニコデモはユダヤ人、女性はサマリア人
- ニコデモは宗教指導者、女性は社会的に弱い立場
- ニコデモは夜に来た、女性は昼に来た
しかし両者とも、イエスによって新しいいのちへ招かれています。
ヨハネはここで、
救いは特定の人々のためではなく、すべての人のために開かれている
ことを示しているのです。
この箇所が私たちに語ること
私たちも心の中に渇きを抱えています。
人間関係や成功や楽しみによって満たそうとしても、やがて再び渇きを覚えます。
しかしイエスは、
「わたしが与える水を飲む人は、決して渇くことがありません。」
と約束されました。
また主は、この女性の過去をご存じでありながら退けませんでした。
同じように主は、私たちの弱さや失敗をご存じの上で、ご自身のもとへ招いてくださるのです。
この箇所の中心メッセージ
イエスはサマリアの女性に生ける水を約束し、ご自身がメシアであることを明らかにされた。
人の心の渇きを本当に満たすことができるのはキリストだけである。
真の礼拝は御霊と真理によって行われ、救いはすべての人に開かれている。
「わたしが与える水を飲む人は、決して渇くことがありません。」(ヨハネ4:14)


