ヨハネ21:24-25 証人としての結論
この福音書を書いた証人(21:24)
ヨハネ福音書は最後に、
「これらのことについて証しをし、またこれらのことを書いた者は、この弟子である。」
と語ります。
ここで言う
「この弟子」
とは、直前まで登場していた
「イエスが愛された弟子」
を指しています。
伝統的には使徒ヨハネと理解されてきました。
そして著者は続けて、
「私たちは、その証しが真実であることを知っている。」
と言います。
ここで重要なのは、ヨハネ福音書が単なる伝聞ではなく、目撃証人の証言に基づいていることです。
ヨハネは、
- 最後の晩餐にいた
- 十字架の下に立っていた
- 空の墓を見た
- 復活の主に会った
証人として記録しているのです。
福音書は神話や哲学ではなく、歴史の中で実際に起こった出来事への証言として提示されています。
証人というテーマ
振り返ると、ヨハネ福音書には「証し」という言葉が何度も出てきました。
バプテスマのヨハネ
「私はその方について証しするために来た。」 (ヨハネ1章)
父なる神
御子について証しされる。
しるし
イエスが誰であるかを証しする。
聖霊
キリストについて証しする。
弟子たち
復活の証人となる。
そして最後に、
ヨハネ自身
が証人として立つのです。
こうして福音書全体が、
「イエスとは誰か」
を証しする一つの大きな証言となっています。
書き尽くせないほどの御業(21:25)
そしてヨハネは壮大な言葉で福音書を閉じます。
「イエスはこのほかにも多くのことを行われた。」
ここでもヨハネは、自分がすべてを書いたわけではないことを認めています。
福音書は選ばれた記録です。
しかし続けて、
「もし一つ一つ書き記すなら、世界そのものも、その書かれた書物を収めきれないと思う。」
と言います。
もちろんこれは文学的表現です。
しかし誇張というより、ヨハネの圧倒された心が表れています。
三年以上主と共に歩み、
奇跡を見て、
教えを聞き、
十字架を見上げ、
復活の主に出会ったヨハネは、「到底書き尽くせない。」と感じたのでしょう。
ヨハネ福音書の最後にふさわしい結び
この結びは非常にヨハネらしいものです。
福音書は
「初めにことばがあった。」(ヨハネ1:1)
から始まりました。
そして最後は、
「イエスが行われたことは、まだまだ語り尽くせない。」
で終わります。
つまりヨハネは、本を書き終えてもなお、
キリストの偉大さは書物の枠を超えている
と言っているのです。
福音書全体のまとめ
ヨハネ福音書は最終的に次のことを証言しています。
① イエスは神の子である
「ことばは神であった。」 (1:1)
② イエスは約束されたキリストである
しるしと教えによって示された。
③ イエスは十字架で救いを完成された
「完了した。」 (19:30)
④ イエスは復活された
空の墓と顕現によって証明された。
⑤ この証言は信じるために書かれた
「信じて、いのちを得るためである。」 (20:31)
そして最後に、
⑥ この証言は真実である
とヨハネ自身が保証しているのです。
この箇所が私たちに語ること
ヨハネは単に情報を提供しているのではありません。
彼は証人として立っています。
そして読者にも応答を求めています。
福音書を読み終えた時、私たちは単に
「イエスについて知った」
で終わることはできません。
ヨハネが問いかけているのは、
「あなたはこの方を誰だと信じるか。」
ということだからです。
またヨハネは、自分が書ききれなかったほど豊かなキリストを見ていました。
私たちも聖書を読みながら、知れば知るほど、
まだ知り尽くしていない主の豊かさ
へ招かれているのです。
この箇所の中心メッセージ
ヨハネは自らを復活の主の証人として示し、この福音書の記録が真実であると証言する。
イエスが行われた御業は書き尽くせないほど豊かであるが、この福音書に記されたことだけでも、イエスが神の子キリストであることを知るには十分である。
読者はこの証言を通してキリストを信じ、永遠のいのちへ招かれているのである。
「イエスはこのほかにも多くのことを行われた。もしそれらを一つ一つ書き記すなら、世界そのものも、その書かれた書物を収めきれないと思う。」(ヨハネ21:25)

