マルコ1:1-13 荒野で備えられる道
王の到来は荒野から始まる(1:1-3)
マルコ福音書は系図や誕生物語から始まりません。
冒頭から力強く、
「神の子イエス・キリストの福音の始まり。」
と宣言します。
マルコが最初に伝えたいのは、イエスがだれであるかです。
そしてその王の到来に先立って、一人の先駆者が現れます。
それがバプテスマのヨハネでした。
主の道を備えるヨハネ(1:4-8)
ヨハネは旧約の預言の成就として登場します。
「主の道を用意せよ。」
というイザヤの預言どおり、荒野で悔い改めを宣べ伝えました。
彼の働きの中心は、人々を自分に向けることではありません。
来たるべきメシアへ向けることでした。
だから彼は言います。
「私よりも力のある方が後に来られます。」
ヨハネは偉大な預言者でしたが、自分を救い主とは考えませんでした。
彼はあくまでも道備えのしもべだったのです。
イエスの受洗(1:9-11)
そこへイエスが来られます。
イエスには悔い改めるべき罪はありませんでした。
それにもかかわらずヨハネからバプテスマを受けられます。
これは罪人の列に加わるためでした。
救い主は遠くから人々を救うのではなく、罪人たちの中へ入って来られたのです。
すると天が裂け、
聖霊が鳩のように下り、
父なる神の声が響きます。
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
ここでイエスが神の子として公に示されます。
マルコ福音書全体は、この宣言の意味を明らかにしていく書物でもあります。
荒野での試み(1:12-13)
受洗の直後、
聖霊はイエスを荒野へ導かれます。
そこで四十日間、サタンの試みを受けられました。
興味深いことに、神の子と宣言された直後に試練が訪れます。
これは神の導きから外れた結果ではありません。
むしろ聖霊による導きでした。
イスラエルが荒野で失敗したように、
アダムが誘惑に敗れたように、
イエスも試みを受けられます。
しかし主は従順を貫かれました。
マルコは詳細を記していませんが、イエスが真の神の子として勝利されたことを示しています。
荒野の意味
この箇所には「荒野」が何度も登場します。
荒野とは、
- 備えの場所
- 試練の場所
- 神と出会う場所
でした。
出エジプトの時も、
エリヤの時も、
そしてイエスの時もそうでした。
神はしばしば荒野を通してご自身の働きを進められます。
人間には何もないように見える場所で、神の救いの計画が始まるのです。
神の子とは何か
マルコは最初から、
イエスは神の子である
と宣言しています。
しかし、その神の子はすぐに王座に着くのではありません。
荒野へ導かれ、試みを受け、やがて十字架へ向かわれます。
つまりマルコ福音書が描く神の子とは、力によって支配する王ではなく、従順によって救いを完成する王なのです。
この箇所が私たちに語ること
私たちは神に導かれているなら、試練はないはずだと考えてしまうことがあります。
しかしイエスは父に愛されておられたにもかかわらず、荒野へ導かれました。
試練そのものが神に見捨てられた証拠ではありません。
むしろ神はその中でご自身の働きを進められることがあります。
またヨハネの姿は、自分ではなくキリストを指し示す信仰者の姿を教えています。
私たちも人々を自分へ導くのではなく、神の子イエスへ導く者として召されているのです。
この箇所の中心メッセージ
イエスは神の子として現れたが、その歩みは荒野の試練から始まった。
バプテスマのヨハネは主の道を備え、父なる神はイエスを愛する子として認められた。
真の王は試練を避けるのではなく、神への従順によって勝利されるのである。
「主の道を用意せよ。」(マルコ1:3)
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1:11)
「御霊はイエスを荒野に追いやられた。」(マルコ1:12)

