創世記30章 ヤコブの子どもたち
ヤコブの子どもたち
さて、聖書にはヤコブの12人の男の子と、1人の女の子が出てきます。
女の子は他にもいたかもしれませんが、少なくとも聖書の中で描かれているのは1人ですね。
この章で全部出てくるわけではありませんが、整理するためにここでリストにして紹介しておきましょう。カッコ内は母親の名前です。
- ルベン(レア)
- シメオン(レア)
- レビ(レア)
- ユダ(レア)
- ダン(ラケルの奴隷ビルハ)
- ナフタリ(ラケルの奴隷ビルハ)
- ガド(レアの奴隷ジルパ)
- アシェル(レアの奴隷ジルパ)
- イッサカル(レア)
- ゼブルン(レア)
- ヨセフ(ラケル)
- ベニヤミン(ラケル)
- ディナ(レア)
ディナは少なくともベニヤミンより前に生まれていますが、生まれたタイミングがあまりわからないので、最後に付け足す形にしておきました。
一夫多妻は聖書的か
ヤコブにはふたりの正妻がいました。
他にもふたりの奥さんの奴隷との間にも子供を授かりますから、そういう意味ではヤコブは4人の妻がいたのと同じです。
ヤコブ以外にも、旧約聖書の中にはたくさんの女性を妻にした人がたくさんいます。
そしてそれが子孫繁栄という祝福をもたらしたかのように見える。
実際にイスラエルの12部族は、ヤコブが4人の妻達(奴隷も含めて)との間に授かった12人の息子達から始まっています。
そこで、人間は一夫多妻制は聖書が教えている真理だと言い始める人たちがでてくるのです。
統一教会の文鮮明や、モルモン教の一部の人たちはそれを実践していますね。
聖書に出てくる偉大な信仰者達はたくさんの妻を持っている。
だから一夫多妻は正しい事であり、一夫一婦制は人間が作り上げた制度に過ぎないというわけです。
イスラム教でも一夫多妻は、経済的に豊かでなければできないことだから、神さまが与えた祝福だという理解があります。
最近は無宗教の人たちの中にも、一夫多妻は理に適っていると考える人たちがいますね。
しかしこの時代、この地域の文化がそうだったということであって、一夫多妻が正しい考え方だという話ではありません。
神様がアダムに与えたのはエバだけで、他にも助けが必要だとは言いませんでした。
「そしてふたりは一体となる」と、聖書には書かれているのです。
人々は、神様に従った結果としてたくさんの妻をめとったわけではなく、常識や欲望に従ってたくさんの妻を持ったのです。
実際、アブラハムのことに関しても、エサウやヤコブたちのことに関しても、たくさんの妻がいたことは良いこととしては描かれていません。
サラの奴隷ビルハとの間に授かったイシュマエルの子孫であるアラブ人は、現代にいたってもイサクの子孫であるイスラエル人を悩ませ続けています。
神さまの計画の中で、ヤコブが結婚する相手はレアであるはずでした。
救い主も、その血筋から生まれています。
ラケルとの結婚は、あくまでヤコブの願望を叶えた結果であり、そのために二人の姉妹の間には嫉妬から来る争いが起こりました。
そして子供たちの間にもその争いが継承されていくことになるのです。
聖書に出てくる他の登場人物に関しても同じことが言えます。
ダビデ王は、自分の子供たちが互いに争い、殺しあうのを見ることになりました。
ソロモンは1000人もいる妻達の影響を受けて神様から離れ、信仰を失い、偶像を拝むようになっていきました。
現代の社会にも、人間には一夫多妻の方が自然だという人たちがいます。
しかし、少なくとも聖書には、「それが正しいことである」としては記されていないことを覚えておいていただきたいです。
ラバンとヤコブの確執
ラケルにとって初めての、そしてヤコブにとっては11人目の息子が産まれたころ、ヤコブはラバンに、「そろそろ故郷に帰りたい。」と申し出ます。
創世記 30:25 ラケルがヨセフを産んだころ、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせて、故郷の地へ帰らせてください。
30:26 妻たちや子どもたちを私に下さい。彼女たちのために私はあなたに仕えてきました。行かせてください。あなたに仕えた私の働きは、あなたがよくご存じなのですから。」
この時点で、ラケルを妻とする条件である14年が経ったことですね。
しかし、ラバンはそう簡単には行かせてくれません。
創世記 30:27 ラバンは彼に言った。「私の願いをあなたがかなえてくれるなら──。あなたのおかげで【主】が私を祝福してくださったことを、私は占いで知っている。」
30:28 さらに言った。「あなたの報酬をはっきりと申し出てくれ。私はそれを払おう。」
神さまがヤコブに与えられた祝福によって、彼もまた祝福を受けていたということを、ラバンはよく理解していました。
信仰をもたないラバンも、神さまがヤコブを祝福しているということは占いによって知っていたんですね。
そんな神さまの力を認めていながらも、ラバンは決して神さまにひざを屈めることなく、自分の利益が増えることだけを願って、まじないと、偶像に頼り続けたのです。
ラバンはヤコブに、報酬を与えるから自分のもとに居続けるようにと言って、ヤコブが去ることを認めようとしませんでした。
ラバンにまったく聞く耳が無いことを知ったヤコブは、作戦を切り替えます。
ヤコブはこの様に応えました。
「わかりました。お給料などいただくには及びません。ただお義父さんの群れの中から、黒毛の羊と、ぶち毛とまだら毛の山羊を全部下さい。それを報酬として下さるなら、またあなたのために喜んで働きましょう。」
色で分けると、羊と山羊の毛を見れば、誰のものかということがすぐにわかります。
これならばヤコブがラバンの羊の世話をしていても、密かに盗んで自分のものにする事もできないことになります。
羊といえば普通は白、山羊は濃い茶色か黒が普通です。
黒い羊だとか、ぶち毛やまだらの山羊なんてそれほどいるわけではありません。
そんなわずかな報酬で済むならば、ラバンにはなんの痛手にもならないのです。
こんな好条件は他にはないだろうと、ラバンでなくても計算できるようなことでした。
ラバンは喜んで引き受けたのです。
ところが、それだけでは済まさないのがラバンの恐ろしい所です。
ラバンは自分の群れから黒い羊やぶち毛、まだらの山羊を分けると、それを自分の息子たちのものにしてしまいます。
「さあ、この群れから自分の分を取りなさい。」とヤコブに渡されたのは、真っ白い羊と、黒や濃茶の山羊ばかり。
その群れの中にはヤコブのものとなる羊や山羊は一頭もいませんでした。
ラバンの底意地が悪いにも程がありますよね。
ヤコブはまったくゼロからスタートしなければなりませんでした。
しかし、このラバンの羊と山羊の群れから、黒毛の羊やぶち、まだらの山羊が生まれたら、それは全てヤコブのものになります。
ヤコブは決してそこではあきらめることはなかったのです。
ヤコブがとった作戦はこうでした。
ポプラ、アーモンド、すずかげの若枝の皮をはいで、その白い所をさかりがついた家畜にいつも見せるようにしたのです。
この当時の人々は、交尾の時に見た色が、家畜の毛色に影響を与えると言われていたんですね。
事実、その枝の前でさかりがついた群れは、ぶち毛やまだらのものを産みました。
そのやり方が飲み込めてくると、今度は強そうな家畜にはその枝を見せ、弱そうなものには枝を見せないようにしました。
すると、強い家畜がぶち毛やまだらの毛で生まれてきて、普通の羊や山羊は弱いものばかりになっていきました。
ヤコブの家畜の群れは強くなり、ラバンの家畜は弱いものばかりの群れとなっていったのです。
交尾をしている家畜に白いものを見せると、その白いのが毛色に出てくるって知っていました?
この時には枝の白い部分を見せたので、その白い筋の部分が毛色に出てきたわけです。
ということは、ハート型の模様を見せたら、ハート柄の家畜が生まれてくるんでしょうかね?
もちろんそんなわけはありません。
ハート型を見せようが、何を見せようが、それが生まれてくる子供の毛色に影響を与えるはずはありませんね。
こんなことには、もちろん何の科学的根拠もありません。
ただの迷信です。
では、なぜそんな迷信が現実のものとなったのでしょうか?
それはそこに神さまが特別な介入をもって働いて下さったからとしか言いようがありません。
この様にしてヤコブは、神様の介入によって危機を乗り超えて行きます。
ヤコブは自分が知恵と策略によって財産を得たと思っていたかもしれませんが、それはただひたすら神様の力によりました。
それは、虐げられたものをそのままで捨てておかない神さまの愛によるのです。