取税人・罪人との食事(マタイ 9:10–13)
「イエスが家で食事の席に着いておられると、多くの取税人や罪人たちが来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いた。」
1. マタイの家での食事:召命の直後に起こること
マタイがイエスに従った直後、 彼は自分の家にイエスを招き、仲間の取税人や罪人たちを集めました。
これは、 マタイの召命が“個人的な出来事”ではなく、 彼の周囲の罪人たちにも救いが広がる入口だった ことを示しています。
イエスは、 「罪人の家に入り、罪人と食事する」 という行動を通して、 神の国がどこへ向かうのか を示しました。
信仰生活は、個人と神さまとの関係では完結しません。
キリストの体として、他の体と繋がる必要があります。
それは「宗教組織としての教会に所属しなければならない」ということではありませんが、他のクリスチャンと支え合い、励まし合い、仕え合うことなしには成立しないものなのです。
2. 取税人・罪人とは誰か
当時のユダヤ社会で「罪人」とは、 単に道徳的に悪い人ではなく、 宗教的・社会的に“境界線の外側”にいる人々 を指しました。
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収税人(ローマの手先とみなされる)
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売春婦
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不正を働く者
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宗教的規定を守れない人々
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社会的に軽蔑される人々
つまり、 宗教的に「ふさわしくない」とされた人々 です。
イエスはその人々と食事をしました。
3. 食事とは「受け入れ」の象徴
古代ユダヤ文化では、 食事を共にすることは“交わりと受け入れ”の象徴 でした。
食卓を共にするということは、
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その人を受け入れる
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その人と関係を持つ
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その人を仲間として扱う という意味を持ちます。
※ 主の晩餐(聖餐)も、本来の目的宗教儀式ではなく、交わりと受け入れが目的として与えられたものです。
つまり、
イエスは罪人を「受け入れた」だけでなく、「仲間として扱った」。
これは宗教指導者たちにとって、 非常に衝撃的な行動でした。
4. パリサイ人の批判
「なぜあなたがたの先生は取税人や罪人と一緒に食事をするのか。」
パリサイ人は、 「罪人と交わることは汚れに触れること」 と考えていました。
彼らの論理はこうです。
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神に近づくためには聖(きよ)さが必要
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聖さを保つためには罪人を避ける必要がある
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罪人と食事することは神から遠ざかる行為である
つまり、 イエスの行動は宗教的に“ありえない”ことだった。
5. イエスの答え:使命の宣言
イエスはこう答えます。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人です。」
この言葉は、 イエスの使命を最も簡潔に表現したものです。
✦ イエスは「罪人のために来た」
健康な人に医者は必要ありません。 同じように、 自分は正しいと思っている人には救いは届きません。
イエスは、
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自分の弱さを認める人
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神を必要とする人
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社会から遠ざけられた人
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罪の重荷に苦しむ人 のために来たのです。
6. 「わたしが喜びとするのはあわれみであって、いけにえではない」
イエスはホセア6:6を引用します。
「あわれみを喜びとする。いけにえではない。」
これは、 神が求めているのは宗教的な形式ではなく、 人への憐れみである という宣言です。
パリサイ人は「いけにえ(宗教的行為)」を重視しましたが、 イエスは「憐れみ(神の心)」を重視しました。
7. イエスの結論
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た。」
これは、 イエスの地上での使命を最も明確に示す言葉です。
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イエスは罪人を避けない
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むしろ罪人を探し、招き、ともに食事をし、 受け入れる
- 神の国は「ふさわしい人」ではなく「必要な人」に向かう
つまり、
イエスは“境界線の外側”にいる人々を中心に招く方である。
✨まとめ
マタイ9:10–13は、イエスの使命の核心を示す場面です。
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イエスは罪人の家に入り、罪人と食事した
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食事は「受け入れ」の象徴
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パリサイ人は宗教的清さを理由に批判した
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イエスは「医者は病人のために来る」と宣言した
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神が求めるのは「憐れみ」であり「形式的な宗教行為」ではない
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イエスは「正しい人ではなく、罪人を招くために来た」
つまり、 イエスの救いは“ふさわしい人(と思っている人)”ではなく、“必要な人”に向かう。 そしてその人々を受け入れ、共に食事するほど近くに来られる。
この場面は、 イエスの愛の方向性を最も鮮やかに示す物語です。

