ルカ13:22-35 狭い門とエルサレムへの嘆き
救いへの招きにどう応答するか
イエスはエルサレムへの旅を続けながら、町や村で教えておられました。
その途中で、ある人が尋ねます。
「主よ。救われる人は少ないのですか。」
これは興味本位の質問にも聞こえます。
しかしイエスは人数の議論には答えられませんでした。
代わりに、
「あなた自身が神の国に入る備えができているか」
という問いを投げ返されたのです。
狭い門から入る努力をしなさい
イエスは言われます。
「狭い門から入るように努めなさい。」
ここでイエスが言われたのは、
救いを努力によって勝ち取れ
という意味ではありません。
むしろ、
神の招きを軽く考えず、真剣に応答しなさい
ということです。
多くの人は、
「いつか入ればよい」
「そのうち考えよう」
と思っています。
しかしイエスは、今こそ決断の時だと教えられます。
門が閉じられる時が来る
イエスは家の主人のたとえを語られます。
門が閉じられた後になって、
「主よ、開けてください。」
と願っても、主人は
「あなたがたがどこの者か知らない。」
と言います。
すると人々は、
「私たちはあなたと一緒に食べたり飲んだりしました。」
と言います。
しかし、それだけでは不十分でした。
彼らはイエスの近くにはいました。
イエスの教えも聞きました。
しかし本当の意味で従ってはいなかったのです。
ここでイエスは、
イエスを知っていることと、イエスに従っていることは違う
ことを教えられます。
外に追い出される人々
イエスはさらに厳しい言葉を語られます。
神の国には、
- アブラハム
- イサク
- ヤコブ
- すべての預言者
がいるのに、
自分たちは外に追い出されるというのです。
当時のユダヤ人の多くは、
アブラハムの子孫であることに安心していました。
しかしイエスは、
血筋によって救われるのではなく、
神への応答によって神の国に入る
ことを教えられました。
東西南北から集められる人々
さらにイエスは言われます。
「人々は東からも西からも、南からも北からも来て、神の国の食卓に着きます。」
これは異邦人を含む世界中の人々が神の国へ招かれることを示しています。
神の国は特定の民族だけのものではありません。
信仰によって神に応答するすべての人に開かれているのです。
そしてイエスは、
「後の者が先になり、先の者が後になります。」
と言われます。
宗教的特権を持つ人が必ずしも救われるわけではなく、
へりくだって神に応答する人こそ神の国へ迎えられるのです。
ヘロデを恐れない主
その時、パリサイ人たちが来て言います。
「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
しかしイエスは少しも動揺されません。
「あの狐にこう言いなさい。」
と言われます。
ヘロデは強大な支配者に見えました。
しかしイエスの歩みは人間の権力によって左右されません。
主は父なる神のご計画に従って進んでおられたのです。
そしてエルサレムへ向かう旅も止められることはありませんでした。
エルサレムへの嘆き
最後にイエスはエルサレムに向かって深い悲しみを表されます。
「エルサレム、エルサレム。」
これは裁きの宣言であると同時に、愛に満ちた嘆きでもあります。
イエスは続けて言われます。
「めんどりがひなを羽の下に集めるように、わたしは何度あなたの子らを集めようとしたことでしょう。」
なんと温かい表現でしょう。
イエスは裁きたいのではありませんでした。
救いたかったのです。
守りたかったのです。
しかしエルサレムはその招きを拒み続けました。
ここに人間の悲劇があります。
神は招いておられるのに、人がその招きを拒むのです。
この箇所が私たちに語ること
この段落で問われているのは、
「救われる人は何人か」
ではありません。
「私は神の招きに応答しているだろうか」
ということです。
教会にいること、
聖書を知っていること、
信仰的な環境にいること、
それ自体は救いを保証しません。
イエスは、
「狭い門から入りなさい。」
と語られます。
それは、へりくだって神に応答し、キリストに従う道です。
そして主は今も、エルサレムに向けた時と同じ愛をもって人々を招いておられます。
この箇所の中心メッセージ
神の国はすべての人に開かれているが、その招きには真剣な応答が求められる。
イエスを知っているだけではなく、イエスに従うことが必要である。
主は今も人々を救いへ招いておられるが、その招きを拒むなら裁きが残る。
「狭い門から入るように努めなさい。」(ルカ13:24)
「めんどりがひなを羽の下に集めるように、わたしは何度あなたの子らを集めようとしたことでしょう。」(ルカ13:34)

